Sakuはゆるく生きる

外国語系の記事が多くなりそうです。

自己分析によって自己は明らかになるのか

シューカツの時期になると皆こぞって自己分析を始める。なぜそれをするかというと、受験でいう必須科目的な要素があるからである。大体の企業や公務員の面接などでは自己分析をしない限り厳しい状況になるというのは皆さん経験していることだろう。

 

まさか受験で英語が必須なのに英語を勉強しない人は(帰国子女みたいなかなり英語力が強い人ならともかく)、いないであろう。推薦やAOにしても小論文が必須なのに(よほど文才ある人とか、記述模試の国語の偏差値70overですみたいな人はともかく)、対策を取らない人はいないであろう。

 

そういうふうに自己分析もしゅーかつにおいては必須科目なのである。

 

ただここで、ある根本的な問題にぶつかる。自己分析によって本当に自己がわかるのか、という問題である。

 

ちょっと哲学的な話になるかもしれないが、まあ考えてみるとおもしろそうなので今日は自己分析について考えてみる。

 

尚、就活をカタカナ表記にしたりひらがな表記にしてるが、特に意味はない。私の気分である

 

1.自己分析の現状

何度もいうが自己分析はしゅーかつでは必須科目的なところがある。

 

おそらく面接を受けた場合、「あなたはどのような人間か?」とか「あなたの性格はどーゆー感じ?」とか「キミはトモダチからどう見られてんの?」みたいな質問を浴びせられる。

 

圧迫面接と称して上のような口のききかたをしてくる面接官もいるらしいが、それは圧迫面接でもなんでもなくその人の知性が低かったり、デリカシーがない場合が多いと思う。日々会社や役所の人間としか関わらないので、感覚がおかしくなっているということもあるが。

 

よく圧迫面接を通して、ストレスに強い人材かを見極めると言われているが、それは大義名分であって、実際のところ、まあ和文和訳すると「『従順な社畜』になりうるか見極め」ているだろう。

 

 

というか圧迫面接してくる人たちが飲食店の労働者からみると「厄介な神様」で、やたらと注文の多い料理店的な感じだったりするのだが(詳しくはお客さまは神様かという記事に載せたのでそちらを読んでいただければ)。

 

で、話を戻すと、なんか同じことしか言ってない気がするが自己分析はある意味しなければならず、シューカツでは避けては通れないモノなのだ。

 

そして学生は参考書やリクナビとかの性格診断を必死にすることになる。詳しくは↓

“自己分析“は就活でどうして必要なの? 方法は? - リクナビ就活準備ガイド

 

で、一応みんな「面接の、面接による、面接のための」自己分析は完了し、かくして内定をもらうことになる。

 

2.では自分とは?

1で述べたのは「しゅーかつの、シューカツによる、就活のための」自己分析である。では自己とは何か?と聞かれてまともに答えられる人はいるだろうか。私は答えることはできない。

 

というか、この自己とは何か?を考えるのは実は途方もない所業なのだ。特に大学で哲学や神学などを専攻した人や哲学に詳しい人ならすぐわかるだろう。

 

古来、多くの哲学者たちがこの自己について考察してきた。まあ私が知っているのはサルトルとか。サルトルについては↓

ジャン=ポール・サルトル - Wikipedia

 

自己を考察するのに哲学を持ち出すのは、あまりに大げさすぎるが、見方を変えると、このような高度な学問をもってしても自己の存在というのはわからないのである。

 

したがって自己分析という行為は私たちが思っているよりはるかに難しいのである。

 

3.自己分析からわかること

で、しょっぱなから申し訳ないが、自己分析なんかしてもわかることなんてほとんどない、というのが私の結論である。

 

というかただでさえ自己を規定するのは難しいのに、20年そこらしか生きていない人(転職なうで、「条件は今よりいい会社!!!以上!!!by DODA」を求めている方を入れると30代とか)が自己分析 をしたところで自分なんてわからないだろう。

 

というか死んでも自分のことなんてわからないんじゃないか。

 

そういう私だって自分のことなんてわからない。「キミはトモダチからどう見られてんの?」ではないが、はたからみると結構誰に対してもフレンドリーなのでさぞコミュ力があるように思われている。

 

しかし私自身は結構人付き合いが苦手意識があったりする。

 

人に合わせることも本当は苦手だ。「和を以て貴しとなす」なんてクレイジーな概念でしかない。というかだから一回大学中退したというのもあるが。ただこのブログを書いている時点で私が関わっている皆さまは本当に良い人たちである。こういう出会いがあったことは感謝したい。

 

こういうふうに「自分からみた自分」と「他者からみた自分」には乖離があったりする。

 

そのことからもわかるように自己なんてものにはっきりしたなにかというのはないのだ。もっというと自分なんてものがわかったら、心療内科なるものはいらない。精神を分析する学問なんて不要なはずである。

 

悩み、怒り狂うことなんてない。ハッピーハッピーな世の中である。

あと怒りについての話題が出たので怒りに関する記事を最後に貼っておく。

 

最後にするが、自己というにはそうそう簡単にはわからないので、自己分析はあまり参考にはならないだろうというのが、私の意見だ。

 

今日はここまで!

 

 

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