Sakuはゆるく生きる

基本なんでも。

考察:『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』

 


すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)

 

 書評レビュー、というか考察である。この本を読んで感じた事を書く。この本を読みたいと思っている人の参考になれば幸いである。

 

常識に支配されていることの危険性

 私がこの本を読んでまず思ったのは、私たちは自分が思っている以上に常識に支配されていることである。で、その原因となっているのは学校という教育機関である。学校は突出した才能を持つ人をつぶしてしまうことがしばしばある。

 

 なぜそのようなことをするかというと社会にとって都合の良い人材を作り上げるためである。要は何か特定の知識に偏っている人材よりも幅広い知識をバランスよくもっている人をあつめた方が社会が回るからである。この本の中で堀江氏は産業革命期のイギリスの例を用いて説明している。

 

政府にとって、工場労働者の確保は死活問題だった。工場の生産性は、国家の軍事力と直結している。…工場の生産性を上げるために必要なのは、基礎的な学力、忍耐力やコミュニケーション能力といった、複数の能力を兼ね備えた「人的資材」だった。(p.24より引用)

 

 

 つまりこの流れが今に受け継がれているということである。私たちは今まで疑いなく学校というシステムの中で生きてきたが、実はそれは従順な労働者を生むため手段であったのである。

 

 考えてみればそうだろう。民間と公務員、ルールは違えども、組織に対して従順な人間が生き残り、少し変わった人は周りからは排除されることになる。というか、これ学校生活の延長線上であることがわかる。

 

 このように私たちは学校というシステム下で国にとって使い勝手の良い人材に作り上げられていることがわかる。

 

国民が二分化される!?

 ではこれからも学校というシステムの中で相変わらず「バランスのよい人材」は作り上げられていくのか。否である。堀江氏はインターネットの普及によって学校のシステムに価値はないと主張する(p.48)。

 

 つまりこれまでの国民国家という考えに代わりG型、L型の人材に分かれていく。要はインターネットを通じてより世界に向かっていく人(G型)と自分の地元に居心地の良さを感じ、そこにとどまる人(L型)に分かれていくということである

 

 この指摘は興味深い。確かに昨今のグローバル化において人々の生活ははっきり分かれているように思える。地方に暮らしていた人、私もそうだが、都会と地方とでは生活形態が全く異なる。例えば地方に住んでいれば、日々会う人は同じ人である。そのことによってその人と親密な関係を築くことができる一方、村八分にされる危険性がはらんでいる。

 

 ある意味、地方での人間関係というのは仲良くなるか、ハブられるか比較的はっきりしている。では都会ではどうか。都会では全国、世界各地から様々な人が来る。そのことによって今まで知ることができなかった新たな情報を知ることができる。

 

 したがって、人間関係や得ることができる情報に大きな差がでる。ただここである疑問が生じるだろう。「このような恩恵は都会に住む人だけが享受するものなのか」という疑問である。要は地方に住んでいたら新たな出会いを獲得することは不可能なのかという指摘をする人が出てくるだろう。

 

 確かに相対的に都会に住んでいる人の方がアドヴァンテージはある。しかしインターネットにより世界の人々と交流できる時代だ。なので、地方に住んでいてもその人の気持ち次第で様々な人、情報を得ることができる。

 

 このようにインターネットの普及によりG型とL型の人材に二分していくと堀江氏は指摘している。

 

これからの生活のあり方

 昨今は働き方改革やワークバランスが政府主導の下、推し進められている。ここで堀江氏はこう指摘している。

 

でも、大切なのは本当にバランスなのか。僕はそこに疑問を感じる。人生の30%を仕事に、30%を趣味に、30%を家庭に費やす。そんな、エネルギーの割り振りをいつも考えているような人生が、果たして本当に楽しいのだろうか。(p.190)

 

 

 これは重要な指摘である。こうやっていろいろ分けて考えているからうまくいかないことがあるのではないか。昔は一人の人間の稼ぎだけでも一家を養うことができた。しかし現在は上がらない賃金などによって共働きをしなければ生きていけない時代になっている。

 

 こういう状況の中ですべてをバランス良くというのは非常に困難ではないかと思う。私は未婚なので、実態はわからないが、結婚している人は顕著に感じているんじゃないかと思う。

 

 そう考えると、これから重要になってくるのは、個人が各々どのような人生を送るか考えていくことだろう。従来の「社会のレール」を疑い、自分の判断によってレールを敷くことが重要ではないだろうか。

 

今日はこれまで!