「生きることに意味なんてない」と主張する人がいる。最もだと思う。この種の主張は結構みなさん見かけたことがあると思う。
特に生きることに息詰まりいろんなサイトを見ている時にこの「生きることに意味はない」という主張を見たことがあるとおもう。なので、今日はタイトルにもなっているが生きることの意味の追求があるのか、ないのか考えていきたい。
自分は生きてる意味がないと感じる現代社会
「生きている意味はあるのか」。現代の社会では自分にこう問う人が結構多いと思う。昔はどうだったかと言われれば、わからない。私も平成生まれなので昔の状況を知ることはできない。まあ資料などを読めばそれなりにわかるかもしれないが、それは所詮データに過ぎないのである。
なぜこれほどまでに生きてる意味がないと感じてしまうのだろうか。それは「あなたの代わりはいくらでもいる」という社会が支配的になっているからだと私は思う。近年のグローバル化などによって、人の流動が激しくなっていった。
具体的にいうと外国から日本に働きに来る外国人などによって会社における雇用が多様になっていった。こうすることで、人手が足りないという問題はある程度解決でき(それでも人手不足が深刻な労働環境もあるが)、というか別に「あなた」じゃなくてもいいというような状態になってしまっている。
それに加えて、AIの台頭によって人間の今まで行ってきた仕事がこれまで以上になくなっていくということも「あなたの代わりはいくらでもいる」という事態に拍車をかけていることだと思う。
ただ考えてみると難しい問題ではある。「あなたの代わりはいくらでもいる」ということはそれだけ1人の人間に対する負担は減るので、実はポジティヴな要素も含んでいるからだ。AIの台頭にしても、人間がやらなくていいことをやってくれるので、労働の負担自体は減るだろう。
こういうことを考えてみると繰り返すが難しいものだ。昨今の日本の劣悪な労働環境の報道を見ると仕事面の負担が減ることは良いように思えるのだけれでも、「あなたのかわりはいくらでもいる」という恐怖は付きまとい続けるのである。
生きることは本当に意味はないのか
こういう社会環境なので生きることの意味を追求することは仕方のないことだと思う。「生きることに意味なんかない」というのは確かに正論であると思う。というかみんなもわかっているだろう。
それでも私たちは自分が生きていることの意味を求めたいのである。そもそも生きることに意味がないと感じるから結果として自殺へと自分を追いつめてしまうのではないか。なのでここで結論をいうのもためらうが、生きることに意味というのはない。しかし、それを強く認識してしまうと自分自身を死に至らしめる危険性がある。
今、人生に息詰まっている人がいたら、自分が生きていることの意味を徹底的に追求していったほうがいい。生きてることに意味がないと感じてしまうから、行き詰まり、人によってはふさぎ込んでいるような気がする。
話が若干それてしまうけれども、こういう「生きることの意味」という考えが強くなっていった原因というのは人間関係が希薄になっているからだと思ってしまう。もちろんウザいやつとかプライベートで関わりたくない職場の同僚とか、そういうのは拒否っていいと思うんだけど、コミュニケーションツールがメールやラインなど直接会わない対話になっているので人と一緒にいるというのが感じづらいのかもしれない。
ただ勘違いしてほしくないのだが、だからといって「昔のようなface to face」な関係を復活させろというつもりは毛頭ない。ただ、会いたい人と直接会う機会は増やした方がいいんじゃないかなーと思うだけである。
生きることの意味を追求することは何も問題ない
というわけで確かに生きることに意味を見出すのはナンセンスなことではあるのだけれども、自分がなぜ生きているのかを自覚しなければ、人生は非常にむなしくなってしまうのである。
現代においては、これまで述べてきたが「あなたの代わりはいくらでもいる」環境が整っているので、職場などで自分の生きがいとかを見出すのは難しいと思う。だから、会社(あるいは役所)以外で新たな人間関係を構築していくことが、人生を有意義に過ごせるか、そうでないか重要になってくる。
その際にSNSとかを使ってそういう新たな人間関係を築くことは大いに意味がある。昔と今とでは、時代背景が異なるので、柔軟な発想を持つことは大事。
で、とにかくわかることは自分1人だけでは自分が生きてる意味を知ることは困難だということだ。必ず誰かしら人がいて、彼らによって自分がどのような存在なのかというのがわかる。なのでしつこいけど人と直接かかわった方が自己を認識しやすくなり、人生息詰まったり病んだりすることが少なくなるよーってこと。
今日はこれまで!