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努力は無意味なのか

 昨今の社会においては、努力という行為に対して否定的な見方が多い。現に「努力よりも才能」的な本とかが本屋に売っている。

 

 ただそれでは才能がない人はどうなるのか、という考えが出てくるのが必然である。努力は必ず報われるのではないのか。ということで努力という行為が果たして無意味なのか下記の本を参考に考察していく。

 


天才とは努力を続けられる人のことであり、それには方法論がある。 (扶桑社新書)

 

 

努力に対する世間の考え

 努力というものに世間はどのようなイメージを持っているのだろう。おそらくあまり良くないイメージ、具体的にいうと泥臭く、効率や質をあまり考えず泥臭くやっていくようないイメージを持っているだろう

 

 いうなれば精神論とか根性論的な考え、というところだろうか。

 

 不幸なことにこういう考えが支配的であるため努力というものが悪いように見られる。結果として「努力否定論」的な考えが出てくる。「努力なんて無意味。そうではなく遺伝で決まっている」とか「○○歳までの教育で能力はほぼ決まる」という類いである。

 

 そういうわけで書店などへ行くとそういう本がたくさん置かれているのを目にする。そういう本がたくさん売られているため皆そういう本を読み、やっぱり努力なんて無意味だ的な考えになってしまう。

 

 

 確かに能力は遺伝で決まる要素もあることは否定できない。スポーツや芸術の世界においては努力だけでは越えられない壁というがある。なので100パーセント努力を礼賛するつもりはない。

 

 だがそういう才能や遺伝に関する言説が強いせいで、ただでさえマイナスイメージの強い努力にさらにマイナスイメージが加わることになる。で、繰り返すが「努力無意味論」の考えを持つ人がさらに増える。

 

 悲しいことに「努力無意味系」の本を書いている人はめちゃめちゃ高スペックなのである。そういう高スペックな人たちが私たちに「努力は無意味」とか「遺伝で決まっている」というのは説得力が…。

 

 それでも遺伝とか努力ムリゲーの類いの本もまったくナンセンスなわけではない。そういう能力や遺伝的要素を解明することによって、その人にとってより良い能力の身に着け方などが見つかる可能性だってある。

 

 で、何に適性があり、何に適性がないのかがわかることは私たちの人生に良い影響をもたらしてくれるだろう。つまり、努力不要というのは自分の能力を最大限に生かし、向いていないことをやめ、自分にとって最大限有益なことをやろうと言っているのではないか、と私は思う。

 

 しかし世間は努力に関してはマイナスなイメージが先行しているのだが。

 

努力における成果

 これまでは努力に対するマイナスイメージを述べてきた。要は才能や遺伝で能力はある程度決まっているのだから、努力したって無意味、という考えである。

 

 しかしこれを鵜呑みにすると非常に危険である。もし皆が皆努力することを放棄したら、そもそもスキルの向上は見込まれないだろう。みんなプーになってしまう。なので努力というものは必要である。

 

 努力をして効果が出なかったという人はそもそも努力をする方向性を誤っていることが多いと思う。ひたすらインプットばっかりやっていたり、基礎固めができているにも関わらず、難しい問題を解かなかったり。あるいは自分では努力をしているつもりでも、一般的に見れば量が少なかったりと様々な要因が考えられる。

 

 

 これは芸術とかスポーツなどにおいても実は同じことが言えると思う。自分のやっている競技に必要ないトレーニングをやっていたり実践を想定した練習をやっていなかったりすることが多いと思う。

 

 そういうわけで努力をしても成果が得られないと諦め、「努力無意味論」を信奉してしまう。

 

 なので、正しい方向性をもった努力をしていかなければいけないのである。そういう正しい努力をすることで、ある程度の成果を出すことができるだろう。これは勉強に限らずスポーツや芸術にも当てはまる。

 

 しかしスポーツや芸術はそれプラス才能が必要なのはいうまでもないが。

 

 ただ勉強に関しては正しい努力というのは大いに効力を発揮する。テストの範囲とかはある程度範囲が決まっているので、努力の方向性さえ誤らなければ点数はとれるようになっている。

 

 それでも高得点にならない場合は覚えるべきところを覚えていなかったり、演習量が不足していることを疑ったほうがよい。逆にできなくてもいいマニアックな問題とかに時間を使いすぎている可能性もある。

 

なので勉強という努力においては量をこなすことと解けなければいけない問題を落とさないことに尽きる。先に紹介した本でもこれらのことが書かれている。

 

今の実力で8割解けて、解くのに努力を要するものが2割。パレートの法則ではないですが、これが黄金比なのです。(天才とは努力を続けられる人であり、それには方法論がある。p.106ページより引用)

 

 こういう風にバランスを意識した勉強プラス量をこなせば一定の成果をだすことができるだろう。

 

努力する意味

 そもそも努力は自分の能力がないがゆえにしなければならないのである。努力することを否定し、努力ムリゲーというのは傲慢であることに他ならない。

 

 もちろんあまりにも自分にとってハードであったり精神的にしんどいものであったならそれは仕方ないのだけど。それを判断するのもあなたの能力のうちの1つかもしれない。まあブラック企業だったらそっこーで逃げるべし。

 

 やや話がそれたが努力というのは自分の能力を向上させるのに必要不可欠な行為なのである。紹介した本の著者は東大卒で主席卒業からの財務省のエリートであるが、そういう経歴であるにも関わらず、努力することの重要性を説いている。

 

 司法試験の際は1日19時間30分勉強していたそうだ(同上p.60ページの要約)。

 

 そのような人をもってしてもかなりの量をこなしているので私たちが努力をしないのはいささかおかしな話である。

 

 また、努力は自分自身に謙虚になるという意味もある。「私は才能があるからやらない」というのは傍からみておかしなやつだろう。仮に能力があったとしても圧倒的に努力をしている人に先を越されるのは目に見えている。

 

 

 そういうわけで努力というのはまず自分ができないということを認めることから始まる。ただ露骨に自己否定しまくるとどっかのヨットスクールみたいなことになるので注意。

 

 とにかく努力というのはできない自分と向き合い、できないことを克服するということが必要とされる。なので努力をすることは人格を陶冶させることについても要素として含まれているのである。

 

 ただ努力を継続することは難しい。誘惑があったりモティベーションが下がったりと努力をする過程において様々な障壁がある。そういう障壁を乗り越えて努力した結果、私たちは最高の結果を得られるのだ。

 

 それでも努力が実を結ばないこともある。しかし努力した結果というのはなにかしらの形で私たちに返ってくるので全く無駄ということにはならない。

 

 こういう風に努力というものを今一度考えてみることによって私たちは努力をすることの重要性に気付く。確かに遺伝やそれに関する能力を解明することも大事なんだけれど、努力なしではその能力を伸ばすことは困難であるということも忘れてはいけない。