映画『聲の形』を見た。結果、超絶おもしろかった。なので今日は、この作品から見出したことを書いていく。
『聲の形』は知っている人は多いと思う。映画が上映されたのは2016年9月である。ということは、『君の名は。』と大体同じぐらいの時期に上映されたということだ。
というか『君の名は。』の人気がありすぎて『聲の形』があまり目立たずに終わってしまったように思える。
が、内容は本当に秀逸だった。
ではこの『聲の形』、どのような点が良かったのか。それは意思が伝わらないことのもどかしさ、人間の因果、想いが伝わることの相互理解を見事に描いてる点だ。この3つについて述べていく。
そのまえにあらすじね。これから観ようと思っている人もいると考えられるので、結末は書かない。ただ、まっさらな状態で観たい人は最初に映画を観た方がいいかも。
あらすじ
『聲の形』は主に2人の人物を軸に話が展開する。1人は石田将也(いしだ しょうや)という少年。もう1人は西宮硝子(にしみや しょうこ)という少女である。
小学生の時、石田将也はごく普通に生活を送っていた。ガキ大将的な存在であったが、周囲の友達とも特に問題なく関わっていた。
ある日、石田将也の通っていた小学校に西宮硝子が転校してきた。
この西宮硝子の存在によって石田を取り巻く環境は大きく変わっていく。
彼女は聴覚に障害を持っていた。それゆえに周囲とのコミュニケーションをうまく行うことができずにいた。
なんとなくどういう展開になるかわかるだろう。彼女はいじめにあう。
聴覚障害に理解を示す人もいたが、やはり彼女は不幸な学校生活を送るようになる。
彼女を積極的にいじめていたのはそう、石田将也である。彼は彼女を積極的にいじめるようになる。
西宮硝子は彼と友達になろうとするが、その思いむなしく、彼は彼女をいじめる。この「友達になる」というのが後に重要になってくるのだけど。
西宮硝子は結局転校することになる。ここからまた石田将也の状況が変化する。
今度は彼がいじめのターゲットになるのだ。今まで仲の良かった友達も彼をいじめ、以後中学までいじめられる状況は続く。
時が経ち、石田将也、西宮硝子らは高校生になる。彼らは通う高校が同じだったため、再開を果たす。
石田は彼女をいじめた過去に対し強い罪を感じていた。自殺を試みようとしたこともあった。
普通に考えれば、彼女は彼をいくらでも憎んでいいはずである。しかし彼女は怒ることもせず、彼と普通に打ち解けていった。
そして西宮硝子は石田将也に友達以上の感情を抱いていくようになる。
石田将也と西宮硝子はお互いに良好な関係を築いていた。それと同時に徐々にではあるが彼は自分がいじめられて以来、周囲の人とうまく関われずにいたのが、良くなっていった。まあ周囲と関係が良くなっていく第一の要因は長束友宏(ながつかともひろ)が脅されてるのを助けたことがあるんだけど。
少し内容的な話になるんだけど、内容の後半あたりから石田将也を取り巻く人々の顔に×(ばつ)のようなものがつく。てかばつか。
で、石田将也がその顔に×がついた人と友好な関係を築けるとその×がはがれていく。これも作品のおもしろさだろう。
で、話を戻そう。
西宮硝子と日々を送っていた石田将也だったが、それを良しと思わない人物がいた。
石田が小学生の時のクラスメイト、植野直花(うえのなおか)だ。
彼女は西宮硝子が転校してきたことで、石田将也の環境が変わってしまったことに不快感を感じていた。
西宮硝子さえ転校してこなければ、石田将也は周囲と良好な人間関係を維持できていたはずだからである。
上野直花は西宮硝子と後に再開した際、そのことを咎め、西宮硝子は自分のせいで石田将也が不幸になっていると感じ自殺を図る。どうなるかは作品を見てくだされ。
あらすじの紹介はここでやめにしておく。これ以上はガチなネタバレになりかねないので。
思いが伝わらないことから生じる軋轢
これが『聲の形』という作品において重要な意味をもつだろう。
西宮硝子は聴覚に障害を持っている。それゆえ周囲の人々との意思伝達は困難を極める。
石田将也は小学生の時、彼女をいじめたりからかったりして、悲しい思いをさせた。彼はその当時どのような感情を抱いていたのか。もっというとなぜいじめたり、からかうようなことをしたのか。
その問を考える上で重要なヒントとなるのは意思をうまく伝えられないということだろう。
彼は100%悪意をもって彼女をいじめたはずはないだろう。もしそうなら高校生になって再開した後に友達になろうとはしないと思う。罪を感じていたとしても、それ以上関わりたいとは思わない。
そのようなことから、彼は悪意をもっていじめたわけではない。
彼は彼女のことを理解したかったのだ。彼女をコミュニケーションをとり、もっと彼女を知りたかったのだ。
しかし、当時は小学生。人生における知識というのが十分ではなかった。普通の人とは違う人間に対し、受け入れる器量がなかったのだ。
コミュニケーションを取ろうにも聴覚障害ゆえ十分にできない。彼女とわかりあいたいのに、それがうまくできない。
そのことにもどかしさを感じ、結果いじめをするという結果になってしまった。好意があるゆえの感情の裏返しがあまりにも残酷な行いをしてしまった。
私としてはそう解釈している。なので、伝えたいのに伝わらないもどかしい感情をいだいていた、ということになる。
石田将也は高校生になり、自分が過去に行った事の重大さを理解することができた。そして自分自身もいじめられ、人生における経験値が高くなったといえよう。
で、彼は伝わらないことの困難さを理解する。結果彼は手話を覚え、彼女と再会後は良好な関係を築くことになる。
彼女を知りたい、理解したい、わかりあいたいという願いが叶ったわけである。
つながれた因果
出来事としての因果を感じたのは、いじめをしたら、結果自分がいじめられるということだ。
石田将也は西宮硝子をいじめ、彼女に悲しい思いをさせた。彼女が彼の小学校から去った後、彼はいじめられることになる。
あらすじで書いたことを繰り返し書いている。ただ、この作品における因果を考える上で重要な出来事であるゆえ、繰り返し書いた。
自分の行ったことが自分に返ってくる。ある種仏教的である。
しかしいじめ、いじめられるという出来事だけが因果だけではない。手束友宏が脅されているのを石田将也が助け、結果として友達になったことも因果である。
もっと根本的なことをいうと、西宮硝子と再び再開を果たしたことも因果である。
出来事だけでない。人はどこかで、なにかでつながっている。そういうことを感じる作品である。
こういうことはフィクションの世界だからそうできると思いがちだが、現実世界で生きる私たちも因果で結ばれているのではないだろうか。
ふと会いたいと思っていた人から連絡がくるなんてこともあることだろう。
そもそもいまさらになって『聲の形』を観ようと思ったのも因果であると思う。
この作品が上映されたのは約2年前である。しかも『君の名は。』が神すぎてあまりあまり目立っていなかった作品である。
それをなぜ今になって観ようとしたかと言われれば、たまたまaikoがテレビでこの作品のエンディングの曲である「恋をしたのは」を歌っているのを聞いて面白そう!と思ったからである。
結果、その「面白そう!」といのが的中し、今ブログで作品の感想じみたものを書いているわけである。
最後の方は映画とは直接には関係ない内容になってしまったが、とにかく人々、出来事における因果を強く感じる作品であった。
想いが伝わることによる相互理解
手話というのも1つの言葉である。石田将也はその手話を理解することにより、西宮硝子の考えを理解し、後に良好な関係を築くことができた。
このことからわかるのは、お互いの考えを理解できれば、対立は解消できるというこである。
と、同時に自分の考えを伝えるということは本当に難しいということもわかる。
普通に意思を伝えることも難しいのに、聴覚が障害があるような状態なら、なおさら難しいだろう。
それゆえ人は悩み、葛藤するのだ。
これは実際の現実世界でも同じことが言えると思う。
私たちは自分の意思を相手に伝えたとしても、それが正確に伝わっているとは限らない。自分の意図したこととは違った形で相手に伝わっているかもしれない。
そのことによって対立が生じ、今まで積み上げてきた人間関係が崩壊するということはよくあることだ。
しかも最近のコミュニケーションの形態はラインやメールなどの文字言語が中心だ。
純粋に情報を伝えるというだけだったら非常に優れているが、これが会話となるとたちまち難しくなる。
そう考えると会って直接関わるということが大きな意味を持つように思える。
話が若干逸れてしまった。
話を戻そう。やはりこの作品において重要なのは「伝えたいのに伝わらない」ということだろう。
伝わらない状態では相互が対立してしまい、傷つき、辛い思いをする。しかし想いが伝わると、対立が解消されるのである。
そう考えると石田将也が手話という1つの言葉を使えるようになったのは大きかったと思う。
言葉を覚え、彼女と意思疎通をし、わかりあえたことが良好な関係を築くきっかけとなったといえる。
相手のことをわかろうとする姿勢、これが相互理解の出発点であると感じた。そのような姿勢を続けることによって多くの人と関わることができるのである。
いろいろ書いてきたが、「意思疎通の困難さ」というのがこの作品である『聲の形』の基本軸であったと思う。
まあ作品を観ていただけるとそのことがわかると思う。