Sakuはゆるく生きる

外国語系の記事が多くなりそうです。

英語習得を困難にする原因とその対策

 私たち日本人はよく英語ができないと言われる。

 

 これは間違ってはいないだろう。中学から大学まで(今は小学校から。中の人は平成生まれなので)、結構な量をこなしているはずなのに、気付くとまったく身になっていない、というのは多くの人が経験している。

 

 なぜ私たちは結構英語自体は勉強しているはずなのに身にならないという状態になってしまうのか。

 

 またどうすればそのような問題を克服することができるのか、そのことについて書いていく。

 

 以前にもこの種の記事を書いた。

 

www.penserblog.net

 

 が、この当時はブログを始めて間もないころだったので、文字数も少ないし、内容もスッカスカなのであまり参考にはならないかもしれない。

 

 ではなぜあえて紹介したかというと、ブログビギナーがブログを続けるとどの程度になるのか、という参考になるからである。

 

 まあ現在も相変わらず程度の低い内容であるが、始めた当初よりかはマシになったということを感じていただければ。

 

 

 

環境的問題

  日本で生活するとなると、そもそも英語を使わずとも何も困ることはない。英語を話さなければいけない状況なんてほとんどない。

 

 英語ができないことによって、被る不利益なんてほとんどない。

 

 もちろん英語ができることによるアドバンテージは大きいが。

 

 現在では翻訳の機能も高まっているので、ますます話す必要がなくなるかもしれない。

 

 繰り返すが、日本でごく普通に生きている限り、英語が出来ずとも絶対的な不利益を被ることはないのだ。

 

 では、海外ではどうか。

 

 インドやスリランカなど南アジアの人々は、英語が母語でないのにも関わらず、生活手段として英語を使いこなせている。

 

 なぜここまで差が生じるのだろうか。

 

 それは例に挙げたインドやスリランカ(他にも多くの国があるが)は英語が話せなければいけなかったからである。

 

 

 歴史上インドやその近隣諸国はイギリスの植民地になっていた。それゆえ英語を使いこなせなければ、生活に支障をきたしていた。

 

 さらに言うと英語ができるかによって、収入や社会的地位が大きく変わってくるのである。

 

 つまり、日本と違い、英語を使いこなせなければ生活に大きく影響してくるのだ。

 

 何が言えるかというと、日本で生きる上では、英語を勉強する確たるモチベーションというのはほとんどない

 

 確かにTOEICTOEFL、英検など資格取得に熱心な人もいるし、多くの企業が社員に資格取得を推奨しているが、別に取らなかったからといって、生活に支障がでるわけではない。

 

 TOEICを昇進条件にしたりしている企業もあるが、日本の企業で大事なのは上の人間に対する忖度であろう。あとは上司にペコペコペコペコできる人か。

 

 なのでコミュ力が高くて、協調性がある、「組織に向いている」人が出世レースで勝ち抜いていく。

 

 そういう人が英語が出来れば鬼に金棒である。

 

 まあそれでも英語ができれば、ごく一般的な日本人よりも収入や社会的地位などが良くなるというせいぜいその程度のことである。

 

 「その程度」という言葉に違和感、不快感を感じた人もいると思うが、何度もいうが英語ができなかったからといって、人生に圧倒的ディスアドバンテージが生じるわけではない。現在では

 

 もしかしたらこれから急速にグローバル化が進み、英語が使えなければいけないような状況が来るかもしれないが。

 

 政治家がアメリカにペコペコしまくり、「英語を公用語にする!!!」みたいなことを言いだせば英語を使わざるを得ないかもしれない 笑。

 

 とにかく言えるのは、英語を使わないと人生に大きく影響を及ぼすような状況ができない限り、英語を使いこなせるようになるのは難しいということだ。

 

 でもそうだった場合、日本人が英語を習得することは絶望的になってしまう。

 

 今のところ、普通に日本で暮らしていれば、英語を話す状況なんてないのだろうから。

 

 何か良い方法はないのか。

 

 要は英語ができなければいけない状況を自分で作ってしまえばいい。

 

 経済的に余裕のある人は留学するなり、海外に旅行するなりして、もう話せなければどうにもならない状況を作ってしまえばいいのだ。

 

 しかしそこで翻訳のアプリとかを使ってしまったり、日本人同士で馴れ合ったりしてしまったら、どうしようもないが。

 

 それでもなかなかそういうことをするのが難しい人もいるだろう。

 

 だいたいは経済的な問題が原因だと思うが。

 

 そういう場合は既に例で挙げた英語の資格を取ることを目標にすればいい。

 

 

 いくら試験であっても英語は英語である。

 

 試験を主催している人も純粋に日本人の英語力が向上することを願っているはずである。

 

 そういう問題を解く訓練をすれば、たとえ英語が使えなければいけない状況になくともある程度はできるようになる。

 

 だから、実践を想定した問題を作成するはずである。

 

 実践を想定した問題を解けばそれなりに英語力はつくであろう。

 

 そういう意味では資格取得の勉強でも一定のモチベーションにはなる。

 

 資格取得以外の方法ではネットによるオンラインでの学習がある。

 

 

 しかもオンラインにおける教材は比較的安価なものが多い。それでいてネイティブスピーカーのレッスンを受けることができるので非常にコストパフォーマンスが高いと言える。

 

 実践的に学ぶという意味ではこのオンラインの教材が優れていると思う。

 

 とにかく自分にあった英語の学習を探し、確たるモチベーションを高めることが重要だと言える。

 

言語構造の違い

 日本人の英語習得が困難なもう一つの理由は言語構造の違いにあると言える。

 

 考えてみれば当たり前だが、日本語と英語は言語構造が違う。

 

 日本語で「私はテニスをします」と言った場合、最初に主語、次に目的語、最後に動詞が来る。

 

 一方、英語の場合、「I play tennis」と最初に主語、次に動詞、最後に目的語が来る。

 

 これはほんの一例だが、他にも疑問文を作る場合、日本語は普通の文をただ上げ調子で言えばいいのに対し、英語は動詞の位置を変えたり、疑問詞をつけなければいけないなど、日本語と異なるルールが多い。

 

 さらに英語には現在完了など日本語にはない時間の考え方がある。

 

 したがって文法において様々な違いがあるので日本語話者にとって英語の学習が困難となってしまう。

 

 文法面だけではない。他にも音声の点からも日本語と英語には違いがある。

 

 日本語ではbとv、lとrの聞き分けが出来なくても会話に問題が生じることはない。というか、これらの音の違い自体がない。

 

 英語では上に挙げた音の違いが理解できなければ会話において大きな支障をきたすことになる。

 

 rightとlightでは単語の意味が明らかに違うので、これを聞き間違うと、いろいろややこしいことになる。

 

 もっとも文脈から判断できるとは思うが。

 

 したがって、言語構造の違いによって、学習を困難にしているのである。

 

 だから、逆に言うと、言語構造が似たもの同士だと比較的習得が容易だと言える。

 

 それはそうである。自分の普段しようしているものと関連性があれば、理解も早い、というのは皆さん経験しているのではないだろうか。

 

 野球をやっている人がゴルフをやったり、バドミントンをやるとその上達は本当に早い。経験者はわかると思う。

 

 それか実際そういう人があなたの周りにもいるだろう。

 

 こういうことが可能になるのはゴルフやバドミントンが野球の動作や理論と関連性があるがゆえ、習得もより一層早くなる理屈だ。

 

 将棋とかをやっている人がチェスをやると、その上達が早いのも動作や理論が共通するものがあるからである。

 

 しかしこのような言語構造の違いがあることを理解している人はどれほどいるだろうか。

 いや、無意識のレベルでわかってはいるのだけど、顕在的にわかって生きている人は少ないだろうと思う。

 

 なので、英語を学習する際はこの言語構造の違いというのを理解しなければ、習得は困難になる。

 

 そのような言語構造の違いがあるのに「英文の例文を丸暗記しろ!」というのは、全くのナンセンスである。

 

 というか、拷問以外の何物でもないだろう。違いがあるからこそ、しっかり文法の勉強をしなければいけないのである。

 

 本屋に行ったら「文法は必要ない!文法のせいで日本人は英語を喋れない!」みたいな参考書があるが、この言説が意味をなさないことはわかってもらえるだろうか。

 

 もちろん自分に合った勉強法があると思うので、文法の勉強なしの方がやりやすいという人もいるだろう。

 

 そういう人は自分のスタイルで英語の勉強を進めれば全然問題ない。

 

 ただ圧倒的多数は(私も含めて)、丸暗記というのはしんどいと思うので文法の勉強をしっかり行うのが間違いない。

 

 文法の勉強は確かに、単調で苦しい作業であるが、いったん理解したら、いろいろ応用が利くので、丸暗記よりはいいと言える。

 

 

英語学習開始年齢の関係

 英語学習、というか、語学の学習は早いほどいいのかというのは、常に議論されている問題である。

 

 間違いないのはそれは早くから取り組むに越したことはないということである。

 

 外国語の学習に限らず野球やピアノやバイオリン、絵画、歌などは早くから始めたほうが周りに大きな差をつけることができる。

 

 トップアスリートやプロのアーティストは幼少の頃から既に取り組み始め、その才能を伸ばしてきた、という事実は疑いの余地がない。

 

 では外国語の学習はどうだろうか。

 

 一般的に英語の勉強は中学生から始める(今は小学校から)。

 

  中には幼少の頃海外に住んでいましたという人もいるが、そのような例外を除けばスタート地点は皆同じである。

 

 それでもめきめきと実力を付け、ネイティブとまではいかないまでも、かなり英語が話せる人は一定数いる。あなたの周りにもそのような人はいたのではないだろうか。

 

 またはあなた自身がそうなのかもしれない。

 

 そのような事例から必ずしも幼少の頃から英語を学習する必要はないと言えよう。中学(今は小学校)から始めたとしても、というか開始年齢に関係なく、しっかりと努力すれば、かなりのレベルにはなる。

 

 むしろ母語もまともに使いこなせないような状況で英語を学習させると後の人生に大きなリスクとなる可能性が高い。

 

 私たちは母語を使い思考をする。日々どのようなことを考えるかは私たちの話す言語に依存している。

 

 つまり母語による言語能力がしっかりしているからこそ、しっかりした思考や判断ができるのである。

 

 これが中途半端になると思考や判断力も同時に中途半端になるとなる恐れがある。そのような状態で英語が話せても、「内容が伴わない、意識高い系」になりかねない。

 

 なので、幼いうちは英語よりも母語、つまり日本語を習得させることが必要不可欠である。

 

 しっかりした思考力を持っていれば、英語の習得は方法論さえ誤らなければ、かなり上達するだろう。

 

 では、幼少の頃に、全く英語に触れさせてはならないかというとそうではない。

 

 子供が英語に対し強い興味、関心を示せば、母語の能力とは関係なく力は伸びていくだろう。子供が強い関心を示しているものを妨げてはいけない。

 

 余談になるが、何も英語に限らず子供が何かに対して強い関心をもったらそれを止めたりしてはいけない。

 

 それは子供の個性をつぶすことになり、「将来の夢は会社員!!」とかいうえげつない子供になってしまう危険がある。

 

 というか子供の頃から夢が会社員とか公務員って老けすぎだと思うんだが。

 

 これって画一的な教育がいまだに支配的な日本の教育に大きな罪あると感じるのは私だけだろうか。

 

 いい加減国語数学理科社会英語信仰を辞めないと、この国は愚かな支配者が幅を利かせる社会から脱却できなくなる。

 

 歌がうまいのに事務職とかに就かせるのはこの国の罪である。

 

 で、話を戻すと、英語を勉強する開始年齢というのはさほど気にしなくてもいいということになる。

 

 もちろん子供が自分から英語に対し強い興味を示せばそれが一番幸せなことなのだが。

 

 どうしても子供に英語に興味を持ってもらいたいなら、軽く英語の本とか、英米文学の小説とか(それはちょっとお堅いか)を紹介するのが良いと思う。

 

 あとはアルファベットなどは教えても全く損はないだろう。むしろこれは後に英語力において周囲との大きな差となる。

 

 なので理想的なのは母語をしっかり学習させつつ、英語の読み書きに必要なアルファベットなどを教えるのがいいだろう。

 

 まったくまっさらな知識よりかはある程度の前提知識があったほうが理解の度合いが早い。

 

 重要なのは優先順位だ。つまり母語→英語であって、英語→母語であってはいけないということだ。

 

 その順位さえ間違わなければ子供の語学力は伸びていくだろう。

 

 強調しておくが、開始年齢はあまり関係がない。どのような年齢層でも適切な努力さえ怠らなければ、力はつくのである。

 

英語を使いこなせる人と使いこなせない人の差と英語教育の問題点

 英語を使いこなせる人と使いこなせない人の差は一体なんだろうか。具体的に考えていこう。

 

 なぜ私たちは皆大体同じ時期に英語を勉強し始めるのに英語の運用能力に差が出るのだろうか。

 

 もちろん環境的要因もあるだろう。既に述べたように英語を話さなければいけない、読めなければいけない、書けなければいけない、というような環境に身を置いている人(身を置いている人)はその習得は容易だろう。

 

 しかし、特に日本人に関していうなら、そういう環境に身を置いている人は少数派であろう。

 

 私たち日本人の多くは、学校という空間で、座学という形式で、集団授業という形式で英語を学んできた。

 

 そのような状況下でも英語習得に大きな差が生じるのは、できる人は正しいインプットをする一方で、できない人はそれができないからである。

 

 できる人とできない人に分かれてしまうのは学校の授業において適切なインプットとアウトプットがなされていないからである。

 

 このノウハウをしっかり身に着けている教師の下で英語を学習した人たちはその実力がかなり伸びた(伸びている)はずである。

 

 全体として英語をうまく使いこなせない人が多いというのは、教員がそのノウハウをあまり知らないということを示している。

 

 だが、別に教師が悪いわけではない(中には「安定」という名の下、教師になり、全く意欲がない人もいるだろうが)。

 

 問題なのは英語学習における適切なインプットとアウトプットに関するノウハウが広まっていないことである。

 

 学校という空間にいおいて行われる英語の授業はいまだに文法、英文解釈、長文読解が中心である。

 

 昔の「構文主義」や「こなれた日本語に和訳」みたいなものがなくなっているのは確かに迎合すべきことであるが、座学中心の英語の授業が支配的なのは間違いない。

 

 文法や英文解釈の勉強は確かに英語を学習するうえで重要である。母語でない言語を学習するうえでは、言語の規則を理解しなければ前に進めない。

 

 丸暗記がいかにナンセンスであるも既に述べた。

 

 ただ、文法、英文解釈というインプットがいまだに多すぎるのである。それゆえに実践レベルで使う段階に達することができないのである。

 

 なので、文法、英文解釈をやりつつもそれを実践で使えるような授業にしていかなければならない。

 

 私は教員ではない教育に関しては素人のただの英文科出身の人間なので、どういう授業にしなければならないのか、ということまで述べるのは大きなお世話だと思うので、具体的方法論を述べることはしないでおく。

 

 ただ、間違いないのは「英語の授業を英語で」というような授業を行うと良い結果はあまり得られないということである。

 

 既に述べたが英語の言語構造は日本語のそれとは大きく異なる。ゆえに現在完了などを英語で教えること自体困難であることは明らかだ。

 

 それに関係代名詞とか日本語で教えるのも難しいのにそれを英語で説明するのは至難の業である。

 

 したがって「英語の授業を英語で」というのは単なる理想論にしかならないといえよう。

 

 あとは受験のシステムを変えることもあまり効果はないと言える。あくまでも私の考えだが。

 

 昨今ではTOEICなど民間の英語の試験を実際の受験の合否に入れる大学が増えている。

 

 だが、結局試験のシステムをいくらいじったところで、「点取りゲーム」という要素を排除することはできない。

 

 なので英語が出来るというよりかは試験で点数を取るのがうまい受験生の方が優位に立つのである。

 

 そういうわけで、試験の制度をごちゃごちゃいじったところで抜本的な改革にはならないであろう。

 

 今重要なのは、英語学習の正しいインプットとアウトプットの方法が教育として広まるかどうか、ということである。

 

 試験の制度をごちゃごちゃいじるよりも、授業において適切なインプット、アウトプットの方法が広まらなければ、日本人の英語の力が向上することは現実として難しい。

 

 それに加えて、これも既に述べたが、英語を勉強することの確たるモチベーションを持つことが必要不可欠である。

 

 日本で生活していれば、とりあえず英語が話せなくても困ることがないので、英語を学習するうえでのポジティブな点を教育として教えるべきである。

 

 

効果的な学習方法とは

 ではどのような学習が効果的なのか。それをこれから述べていく。

 

 英語、というより語学を勉強するうえで欠かせないのは音読である。

 

 現在は音読の重要性を説いた本や参考書が多くあるが、それだけ音読というのは語学を学習するうえで欠かせない行為なのだ。

 

 なぜ音読が重要なのか。

 

 当たり前だが、私たちは幼少の頃から、母語、つまり日本語をたくさん話すことによって習得してきた。

 

 なので、根本的には当たり前なのである。

 

 もっと具体的に言うと、音読をすることにより、語順通りに理解することが可能になる。

 

 I play tennisをいちいちIが主語で、playが動詞で目的語がtennisと「構文解析」をしていたら、あまりにも時間がかかりすぎる。

 

 というかこんな読み方していたら、センター試験レベルの英語すらまともに解けない。

 

 音読をすることによって、いちいち「返り読み」せずに理解することが可能になる。

 

 音読をする習慣をつけておけば、語順通りに読むことが自然にできるようになるのだ。

 

 言うまでもないが音読は英語に限らず語学全般を学習するうえで大いに役に立つ。

 

 で、余談だが、音読は語学の学習だけでなく、特に暗記系の勉強にも効果を発揮する。

 

 すでにわかっている人もいると思うが一応述べておくと、教科書を黙読するより声に出して読んだほうが内容が記憶に刻まれやすい。

 

 やったことがない人は一度実践してもらうと分かると思う。

 

 ただ一言一句全部音読するのは拷問なので、覚えたい箇所だけ音読するのがbetter wayだろう。

 

 何よりも実践である。自転車だって単に知識を覚えただけでは乗れないだろう。

 

 実際に乗ってみて試行錯誤を重ね、初めて乗ることができる。英語もそれと同じように実際に音読をし、いろいろ悩みながらようやく身に着けることができるのだ。

 

 そういうわけで音読の学習は語学や暗記系の科目の学習において大きな効果を発揮する。

 

 で、次に重要なのは文法の学習である。ほんとうにくどいが、母語でない言語を学習するうえで文法の学習は必要不可欠である。

 

 文法の学習をすることでいろいろと応用が利くのである。

 

 ではどのような文法学習が効果的なのか。それはしっかりと理屈を中心に取り組む学習である。

 

 伝統的に英語は例文丸暗記主義が支配的であった。というよりいまだにそのような主張をする人もいるだろう。

 

 確かに手っ取り早く丸暗記をしてしまった方が良いが、いくらなんでもそれはしんどいだろう。

 

 特に暗記が苦手な人がそのようなことを言われると一気に学習意欲が減退するであろう。

 

 なので理屈を中心とした勉強ができる良質な参考書を紹介する。

 

 

 

 

 

  関正生先生の参考書。ご存知の人も多いだろう。

 

 丸暗記することが嫌だという人はぜひ彼の参考書を読んでみることをお勧めする。彼の英語に対するスタンスが丸暗記の排除なので、理屈を通して説明することに徹底的に重点を置いている。

 

 

 また歴史的背景の知識の説明もあるので、すんなりと文法の知識を吸収できる。

 

 そういうわけで英語に対しある種の苦痛を感じている人、英語を丸暗記だと思っている人は彼の参考書を読んでみるといい。

 

 英語に対する苦痛感がなくなっていくと、私は強く信じている。

 

 しかし、関先生の参考書に対しては、一定の批判がある。その主な批判内容は「他の参考書に書いてある内容が書いていない」というものである。

 

 この批判はまったくのナンセンスである。そもそも従来の参考書はいろいろ内容をもりこみすぎるがゆえ、ごちゃごちゃしてしまい、結果丸暗記をしなければならないような事態になってしまっている。

 

 あまりに情報過多なのである。

 

 本来文法というのはシンプルなものであるのに、普通の参考書、つまりいろいろ情報量が多い参考書の説明によってやたら複雑なものと感じてしまう。

 

 be to 不定詞とか5つくらい意味があったと思うが、本来あんなに覚えなくてもいいのだ

 

 進行形にできない動詞の説明が従来の参考書にやたらいろいろ書いてあるが、実はものすごくシンプルなのである

 

 これらは関先生の参考書を読んでいただければお分かりいただけると思う。

 

 なので彼の参考書を手に取ってみていただきたい。

 

 なんといってもまずは実践である

 

 私は一応大学は英文科を卒業しているので英語の学習などについては強いこだわりがあるので、関先生の参考書はおすすめする。

 

 で、次に英語を学習するうえで良い方法は自分の好きな分野について書かれた英文などを読んでみることである

 

 野球でもサッカーでも料理でも将棋でもなんでもいい。

 

 自分の好きな分野について書かれた英文を読むと英語自体は完全に理解することは難しくても、なんとなく意味はつかめるのである。

 

 それで読み進めていくうちに英語に関する「アレルギー」がなくなっていき、英文を読むことが苦痛でなくなっていく好循環が生まれる。

 

 それに加えて、英単語の知識も増えていくので自分の好きな話題について書かれた英文を読むのはメリットがかなり多いのだ。

 

 ネットなどで公開されているのもいいが、どうしてもネットの情報は断片的な内容が多いので、本で読んだ方がよいと私は思う。

 

 他にもいろいろ英語の学習方法はあるがだいたいはこんな感じである。

 

 まとめると音読、文法の学習、自分の好きな話題について書かれた英文を読む、である

 

AIと英語学習による差

 これからはAIを活用して、今以上に自分で英語を話せるようになる人と、AIにかなりの部分委託する人に二分化するであろう。

 

 AIを活用して自分で話す力を伸ばす人はなんら問題ない。自分で話せるに越したことはないし、それが一番いい。

 

 自分で話せることによって、周りからの信頼も高まり、人生はより良くなっていく。

 

 問題なのはAIに英語を任せる人だろう。だがここでも「英語における社会層」が二分化する。

 

 一つの例はリテラシー能力の高い人で、英語を使いこなすのが苦手な人である。もっとわかりやすく言うと学習能力の高い人だが、英語を話したりするのは苦手という人である。

 

 リテラシー能力が高い=英語も話せる人とイメージする人も多いだろうが、必ずしもそうではない。

 

 リテラシー能力が高くても話せないという人は少なくない。そもそも学習能力が高いことと英語を話せることは違う。

 

 数学や物理はものすごく得意なのだけど、英語は…という人は多いだろう。

 

 ただ、そのような人々でもリテラシー能力が高いので、何をどのようにAIに「通訳」させるかは的確にできるのである。

 

 なのでリテラシー能力の高い人で英語を話すのが苦手な人はAIを活用し、「通訳」させるのは全然問題ないだろう。

 

 もう一つの例はリテラシー能力が低い人である。

 

 リテラシー能力の低い人はそもそも母語のレベルも低い。したがって思考自体がカオスである。

 

 そのような状態ではまともに自分の主張をAIに「通訳」させることは困難である。

 

 したがってリテラシー能力の低い人はAIを活用できず、場合によってはAIに支配される、というような事態になってしまうかもしれない。

 

 今後AIがどれほど進化していくかはわからないが、もし意思を持ってしまったならそういうリテラシー能力の低い人を支配するみたいなまるでSFのような未来が来るかもしれない。

 

 したがってAIを活用するにも最低限のリテラシー能力は身に着けるべきである。

 

 そのようなことからも幼少の頃から母語をしっかり身に着けさせることは重要であるとわかっていただけただろうか。

 

 英語を始めるのに遅いということはないが、母語をしっかり身に着けさせるのは絶対に早い時期であるということが言える

 

 絶対と言い切ってしまうのは一般的にはよくないことだと思っているが、母語に関しては絶対に早い時期から身に着けさせるべきだ。

 

 母語を身につけさせなければ、思考も軟弱になり、最悪英語が話せないという事態になったときにAIはそのような人には手を貸さないということが起きてしまうのである。

 

 英語習得に関する記事ではあるが、まずは母語を身に着けさせることが重要である。