私たちは人生で努力しています。
受験や資格取得に頑張っている人や部活を頑張っている人(今は甲子園真っ只中か)、社会人では仕事を頑張っている人など。
ただ頑張ると一口に言ってもタイトルにもなっていますが、「良い努力」と「悪い努力」の2種類の頑張るがあると思います。
今日はこの2種類の努力の違いについて述べていきます。
- 「良い努力」とは
- 「悪い努力」とそれが生み出される原因
- 嫌いなことをやるメリット
- 勉強を避けると「悪い努力」をしなければならない状況が増える
- 学校の「常識」と勉強
- 「良い努力」を送る人生
- 日本社会の風通しの悪さは「悪い努力」が積み重なった結果
「良い努力」とは
「良い努力」とは具体的にどのような努力でしょうか。
「良い努力」とは自分の好きなことや熱中できることに全力に取り組んでいる状態のことを言います。とにかく目の前のタスクに没頭し、もう時間が過ぎるのを忘れている、こんな状態になっていれば「良い努力」をこなしていることになります。
で、自分の好きなことだから、苦痛を感じずに圧倒的な量をこなすことができる。その結果、最短距離でその分野の力がつく。
なので、「良い努力」は得られるメリットがあまりにも大きいんですよね。
私の人生の経験上ですが、この「良い努力」をこなしていると自然と良い出来事が起こってきました。
人間関係に恵まれたり、自分のやりたかったことが思っているより早く実現したり。
まあ考えてみると当たりまえですよね。好きなこと全力でやっているわけですから…。
好きなことをやっている以上、負の感情になることなんてほとんどありません。確かに好きなことをやっているとき、うまくいかなくて落ち込むことはあります。
が、それでも、自分のスキルを伸ばすために必要なことなんだとポジティブにとらえることができます。
なので負の感情が長続きしません。
ここでスピリチュアル的な話題を持ち出すつもりはありませんが、良い感情をキープしてれば、必然的に良い出来事を引き寄せることができるというのは間違いないと思います。
良くも悪くも現実で起きていることは私たちの思考の結果なんですよね。
満員電車でイラつくのも、電車の遅延でむかつくのも、目の前で嫌な出来事が起きているのは、あなたが日々負の感情を抱いていることの結果です。
もし、あなたがこういう出来事に見舞われているなら、「良い努力」を実践していない可能性が高いです。
朝起きると憂鬱な気分になる。休日で仕事の前日(大体日曜)になると「また仕事か」と嫌な気分になる。
会社とかの人間関係に嫌気がさす。
こんな感情になっていないだろうか。そうであるなら、これから述べる「悪い努力」をしていることになります。
何かを変えようとしない限り、当面嫌な出来事から避けることができないでしょう。
自分の心に素直になっているでしょうか。自分の心に正直になっているでしょうか。
あなたは「良い努力」をするために、自分の心に耳を傾けなくてはいけない。
「悪い努力」とそれが生み出される原因
話変わって「悪い努力」とはどのようなものか。
「良い努力」と真逆の行動を起こすことです。
まあ当たり前ですが…。
ただ、こういう一見単純なことを今一度冷静に考えてみると、今まで見過ごしてきて気付かなかったなにかがわかってくるかもしれないんですよね。
それでは「悪い努力」について詳しく考察していきましょう。
「悪い努力」とは自分の嫌いなことに嫌々取り組むことです。
例えばやりたくない仕事をやっている時。これやって一体何の意味があるんだ!?っていうの結構あるじゃないですか。IT化が進んでいるのに、ひたすらハンコ押しまくるのとか。
悪い努力というのは嫌いなことを露骨に頑張る行為なんですよね。
厄介なのは、こういう「悪い努力」を続けていると心身共に異常が生じ始めます。
最初は微々たる症状だったのが次第に大きくなり始めます。
初期の時は例えば、「会社(学校)行きたくねー、まじめんど」だったのが、後になってくると「もう会社(学校)自体行きたくない!もう嫌!」という心境になる。そしてベッドから起き上がれない状態になります。
それに伴って風邪をこじらせたり原因不明の具合悪さに襲われたりする。
上記のような症状が「悪い努力」しているときに出る主な症状です。
これが「悪い努力」。
学生のうちは幸運にも「悪い努力」をせずに済むことが多いです。
問題は社会に出てから。
会社とか公務員になると自分にとってムリゲーな仕事をしなければ多い場面に直面します。嫌いなことを嫌々こなすわけだから、「悪い努力」をすることになる。
それでも何かのきっかけでその業務が得意になり、好きになれたら良いですが、ずっと嫌いであり続ける可能性もある。
どうしても無理であればその業務を拒否るなり、それでも押し付けてくるのなら最悪辞めなければいけない。
自分でどうにかしなければ、「約懲役40年『悪い努力』をする刑」を受けることになるんですよね。
でも、辞めるということをできない人が多いのが事実です。つまり「悪い努力」せざるを得ない状況になってしまう。
なぜ辞められないのか。
いろいろな理由が考えられます。世間体、見栄、プライド(大企業にすがっていたいなど)など。
他にも性格という問題があります。「自分が辞めたら周囲に迷惑がかかる」、「家庭があるから辞めるに辞めれない」など。真面目系な感じですね。
でも、その真面目さは労働環境がオワコンな日本社会では致命的となります。
「悪い努力」を実践しなければならない会社(公務員)を辞められない人が多いのが今も昔も変わらない日本です。
ただ、根本をたどると、組織を辞められない理由というのは日本の教育にあると考えられます。
日本の教育の闇については上記の堀江貴文氏の『すべての教育は「洗脳」である』に詳しく書かれています。
私たちは学校という教育機関によって「常識」を植え付けられていきました。学校における「常識」というのは道徳規範のことです。
「みんな仲良くしよう」、「先生とすれ違ったら挨拶をしましょう」、「廊下を走ってはいけません」など。
他にも決まった時間に登校し、決まった時間に帰る。1限から5、6(高校になったら7限)に授業がぎっしり詰め込まれる、帰宅部はあまりよく見られないなど。
通知表は1やCがつくと落ちこぼれの烙印を押されるのも学校教育の例でしょう。たとえ何か秀でた科目が1つあっても全体が悪ければ相手にされない。
なので嫌いな科目も将来を考えるなら無理に頑張らなければならない。
もちろん医者など高度な知識を要する職業は嫌いな勉強でもしっかりこなさなければいけないですが…。
学校は全ての生徒にオールラウンドな知識を持つことを要求するんですよね。
こういう風に恣意的な「常識」を押し付けられたことによって、私たちは「悪い努力」をすることが習慣となってしまった。
当然学校を中退してしまえば、レールからは外れることを意味する。本来レールは自分自身でも作れるのに。
学校で教わるのは知識ではなく常識なんですよね。
こういうふうにして私たちはこの愚かな社会に飲み込まれることになります。
まとめると、「悪い努力」は自分な嫌いなことを露骨に頑張ることです。そしてそれは教育の段階で既に行われている。
ただこういうことを言うと、「嫌いなこと、苦手なことをやることは必ずしも悪いことではない」と主張する人が出てくると思います。
確かに。私はその主張が間違っているとは思わないです。なので嫌いなこと、苦手なことをやることのメリットも書いていく。
嫌いなことをやるメリット
嫌いなことをやることのメリットは自分が何が嫌いなのかを自覚できる点です。
嫌いなことを自覚すれば、自分の向いていなことがわかる。自分の向いていないことがわかれば、自分が何をしなければいけないかがわかる。
嫌いなことを自覚しないで、そのタスクをこなすことは自分にとってもつらいし、周囲にも迷惑がかかってしまう。
なので人間関係などを考えたうえでも早い段階で、自分が何が嫌いなのかを理解することは重要。
他には勉強面でしょうか。小学校から高校まではカリキュラムの都合上自分の嫌いな科目、苦手教科にも取り組まなければならないです。
国語が得意だが、数学とか見るだけで「アレルギー」が出るほど苦手のような人でもとりあえずは数学に取り組まなければならない。
その現実から避けるようなことをすると、自分の人生の選択肢を狭めてしまう。地方では公立の進学校が優位なので、5教科ができることは必須な気がします。
それができないということになれば、私立の高校に進学するか、さもなくば得意科目でよほど神がかり的に得点源にしなければ公立の進学校に合格することは難しい。
選択肢を狭めないためにも、苦手教科にはある程度取り組まなければならない。
「今の学校システムは腐っている!今すぐ改革を!」と主張したところで現行のシステムは変わらないです。
そうであるなら、苦手科目に取り組んでどうにかしたほうが現実的でしょう。
別に勉強とかはそれができないからといって直接的に人間関係に影響を与えるわけではないです(劣等感を感じることはあると思うが)。
できてもできなくても結局は個人の問題である。ならば勉強に関しては苦手でも取り組んだ方がいい。
嫌いなこと、できないことをできるようになることで、自信がつき、それが成功体験につながるということもあります。
そういうメリットがあるので、勉強に関しては苦手であっても取り組んだ方がよいと思います。
勉強における苦手克服は完全に自分との闘いなんですよね。誰か相手が関与するわけではない。少なくとも国語数学理科社会英語に関しては中学レベルまではできておいた方が理想です。
この5教科の基礎学力を築き、学習方法を確立すれば、自分の興味関心のあることに対する上達も早くなる。
得られる情報も変わってきます。科学の知識があるのとないのでは、人生の生活スタイルも大きく変わってきます。
英語を話せるか話せないで、交友関係は大きく変わってきます。
入ってくる情報量とその質が勉強しないのと比べ各段に変わってくる。
なので勉強に関しては苦手であっても取り組んだ方が自分の人生における視野は広まります。
で、勉強ができることはあなたを守ることにもつながる。既に述べた進学校ネタですが、あまり良い言葉ではですが、「偏差値の高い高校、大学」の方が人としてしっかりしている子が多い。だいたいキチンとした家庭環境に育てられた人が多く、人をいじめたところで時間の無駄でしかないことは当たり前に自覚しているので、そもそも衝突はあまり起きないです。
一方「偏差値の低い」学校にいると、あなたは危険にさらされる可能性が高くなります。やんちゃな人が多かったり、むかつくやつがいれば真っ先にターゲットにしたがる人が多い。
もちろんすべての「偏差値の高い」学校の生徒が良い人間とは限らないし、「偏差値の低い学校」の生徒でも優しい人間はいます。
人間関係を偏差値で決めるとかこれほど愚かなことはないです。
ただ、それでも、所属する組織を考えるなら、頭が良い人が集まったところの方が絶対に良いです。
頭の悪い組織は何をやらかすかわからないし。
ちゃんとした知性を持った人たちで構成された組織は(一部学歴とかにプライドを持ちすぎて人を見下すアホが一部いますが)、おおむね安全地帯です。
でも進学とか、就職とかはしっかりある程度レベルの高いところを目指した方が賢明です。
この被害は就職でもろにくらってしまうことが多いような気がします。
例えばある程度の大学を卒業した後、いろいろあってレベルの低い会社に就職してしまった人がいるとします。
今までは良質な組織の下、良質な人間に守られていたのが、社会に出て救いようのないDQNと付き合わなくてはいけなくなった人はしんどいです。
そういう状況にある人は転職するなり、独立するなり方法を考えたほうがいいです。
人間関係で救いようがないと、状況が良くなる可能性はほとんどゼロです。
話がまた飛びすぎたので、話を戻すと、勉強においては、たとえ嫌いだったとしてもある程度は取り組んだほうが得られるメリットは大きいです。
勉強を避けると「悪い努力」をしなければならない状況が増える
学歴がどうであれ、勉強をしなければ「悪い努力」をしなければならない状況が増えることに間違いはないと思います。
前の章でも勉強に関するメリットは述べたので、もうわかっていただけたでしょう。
勉強しないと、知識が蓄積されていくことがないので、やれることが限られてきます。
英語が嫌というのは簡単だし、AIに全部任せればいいという人もいるでしょう。でも、自分で話せる人の方が魅力的だし、むしろ自分で話せた方がコミュニケーションはスムーズにできる。
いちいち自分の言ったことを訳させていては時間のロスです(AIがどれくらい機能が高まるかは未知数ですが)。
他にも歴史や宗教の知識があるのとないのでは、人間としての魅力が大きく変わってきます。それでもいいという人もいるかもしれませんが、そうやって拒絶する人ほど努力も大してしないのに「困った時の神頼み」をするんですよね…。
いろいろ拒絶していくうちに気づくとあなたは人生の選択肢が狭まり、とても味気ないものになってしまいます。
こういうことが起こる可能性があるのでやはり勉強は絶対にしたほうがいい。
それでも勉強が苦手で嫌いという人もいるでしょう。
・「テストで高得点とるとかしんどいし」
・「勉強して進学校にいくとか到底無理」
など。
でも、大事なのは取り組む姿勢です。
たとえ苦手であっても、なんとかできるようになりたいという姿勢を持っていれば心ある頭の良い人がきっと味方をしてくれきっと良い方向に向かっていくでしょう。
まあ5教科できるに越したことはないが、もしできないにしても、克服しようとする姿勢は持ったほうがいいかと。
学校の「常識」と勉強
ここまで読んできた人はどこか矛盾めいたものを感じたかもしれません。
私が最初のほうで学校の成績のシステムを批判していたのに、後になって勉強の重要性を主張したので…。
重要なのは、学校の「常識」には疑い、勉強はなるべく自分で学習する、という意識を持つこと。
学校の「常識」と個人の勉強は別々に考えるべきです。そういう認識を持てば、支配されずに自分で知識を身につけることができます。
「良い努力」を送る人生
「良い努力」を送る人生は本当に楽しいし、毎日が充実します。
では、「良い努力」を送るために必要なことは何でしょうか。
「良い努力」をする人生に必要なことは自分の心に正直に素直になることです。
もし何かやりたいことがあれば、周囲が何と言おうともその信念を貫くこと。これが大事です。私自身、この信念を貫くことによっていろいろ人生を切り開くことができた経験があります。
次に自分の嫌いなことは(勉強を除いて)、極力やらないこと。自分にとって負の感情になるものをやったところで、負の出来事を生じさせるだけです。
嫌いなことをやって健康を害してしまったら、もう何のために生きているのかわからないですから。
あなたにとって嫌いなことは、ある人にとっては好きである可能性がある。
世の中は埋め合わせでできているんです。自分の嫌いなことは他の人に任せ、好きなことを徹底的にやればいい。
とは言っても好きなことをするのにためらう人もいるかもしれません。
「今の仕事があるし」
「周りに迷惑をかけるし」
みたいに。
こういう場合、まずはマインドから変えていく必要があります。
既に述べましたが、多くの日本人は学校のよる「常識」が植え付けられている。
この植え付けられた「常識」を取っ払うことから始めなくてはいけないです。
そのための手助けとなるのが、『自分のことだけ考える』。
本書で述べられているのは「まず私たちは『不真面目』になる必要がある。『不真面目』にならなければ、自分のやりたいことを選択したりできないし、嫌な会社を辞めることができない」というものです。
なので「不真面目」になることが「良い努力」を実践するうえで必要となります。
次に無心になって没頭できるものを探すこと。別に野球でもテニスでもゲームでもなんでもいいい。
無心になってできるものを探し、それに没頭していると自然に道は開けてくる。そのためには自分の興味あることをいろいろやってみる必要があります。
飽きたら飽きたで全然いいし、その過程ではまれるものを見つけられればいいんです。
日本社会の風通しの悪さは「悪い努力」が積み重なった結果
結局言えることは、この日本社会のどんよりした雰囲気は、皆が「悪い努力」をした結果だと思うんですよね。
学生時代はあんなに楽しかったのに社会人になり、その楽しさを忘れてしまった、という人が多いような。
もう都会の電車の中とかの閉塞感とか本当にやばいっすよね…。
皆同じ色のスーツでひたすらスマホ見まくっていますし。
彼ら彼女らがどのような人生を送っているのかは全くわかりませんが、雰囲気単調な変化のない生活を送っているように感じます。
変わらない仕事、変わらない人間関係、変わらない職場。
確かにいったん慣れてしまえばラクかもしれません。が、そこに「良い努力」というのは存在しないです。
自分にとって楽しいと思うこと、ワクワクすることとは対極的な世界になってしまっています。
それでもこの閉塞感はどうにかならないものかな~と思います。
高校生や大学生は日本の社会人をどのように見ているんでしょうかね…。
「あー卒業したらあんな感じになってしまうのかー」、「うわ~学生としての生活を終えたらもう楽しめなくなってしまうのかー」みたいに感じている気がします。
そうならないためにも、一人でも多く「良い努力」を実践していくなら、未来は今よりましになるかもしれないです。
以上