Sakuはゆるく生きる

基本なんでも。

考えているようで深くは考えていない


Mr.Children「himawari」Music Video

 Mr.Childrenの曲でこんな感じの歌詞がある。『himawari』で出てくる。興味ある人はぜひ聞いていただきたい。曲自体も素晴らしい。ミスチル好きは当然知っているはず!

 

 と言っても、別にミスチルうんぬんを語るわけではない。なぜか「深く考えていない」という箇所が印象に残ったので、深く考えることについていろいろ述べていきたい。

 

 

 

「考える」の種類

 「考える」と聞いてどのようなことを思い浮かべるだろうか。

 

 数学の問題を考える、最短距離で目的地まで行くことを考える、会社を辞めるための方法を考える(こんなん考えてたら、deep black企業)など一口に考えるといってもいろいろ種類がある。

 

 私は「考える」には2種類あると考える。1つは目的を達成するための「考える」。もう1つは人生について深く考える哲学的な意味における「考える」

 

 目的を達成するための「考える」というのは上に挙げた例である。数学の問題を考えたり、目的地まで最短距離で行く考えなど。

 

 目的を達成するための「考える」というのは具体的でわかりやすい。対象がはっきりしているからだ。数学、目的地、会社の退職。だから対策を立てやすい。

 

 私たちはこの目的を達成するための「考える」思考は慣れていると思う。というか日々この思考を実践している。

 

 でなきゃ、スマートに生きられないからだ。

 

 

 一方、人生について深く考える、哲学的な意味における「考える」はどうだろうか。

 

 この思考をしている人はあまりいないと思う。

 

 なぜか。

 

 この「考える」は目的を達成するための「考える」と異なり、対象が漠然としているからだ。人生といってもはっきりなにかと言われれば、答え窮するだろう。

 

 私自身そう聞かれたらはっきりなんと答えればいいのかは自信がない。

 

 人生についての「考える」は対象が漠然としているので、考えるのが難しい。

 

 こんな難しいことを毎日考えるのは割りに合わない。時間の無駄にさえなりうる。

 

 そもそも私たちは小学校から高校、大学(院)から就職、つまり今に至るまで目的を達成するための「考える」に支配されて生きている。

 

 ・「テストで点数を取るためにはどこを重点的に勉強するか」

 

 ・「志望校に合格するためにはどれくらい点数を取らなければいけないか」

 

 ・「希望する会社に内定をもらうためにはどれくらい面接官に媚びるか、オンシャを礼賛するか」

 

 などいずれも目的を達成するための思考の割合があまりにも高い。

 

 もっと細分化すればいろいろあるが、めんどいのでこれぐらいにしておく。

 

 ただ、学生のうちはまだましなほうだ。進路を決めたりすることは目的を達成するための「考える」ではあるが、同時に人生における重要な決断をする要素も含まれているからである。

 

 これが社会人になるともう大変だ。

 

 日々の仕事の忙しさに追われ、人生どうするかなんて考える余裕がなくなる。

 

 「上司に忖度」、「出世」、「営業先の相手にぺこぺこ」など毎日目的を達成するための「考える」を強いられることになる。

 

 それに休みも少ないので、ゆっくり考えられない。たがだか10日間程度の休みを長期休暇ってこの国ほんとあほやない!?

 

 当面働き方改革は起こらないであろう。

 

 政治家は私たち国民を徹底的に働かせたいのだ。

 

 と話が逸れてしまったが、本来重要であるはずの深く考える、つまり人生について真剣に考える行為が次第に少なくなってしまっている現状である。

 

 これ以上書くとこの章の長さが半端なくなるので、まとめると、「考える」には

 

 ・目的を達成するための「考える」

 

 ・人生について深く考える「考える」

 

 の2種類あるということ。私の考えだが。

 

考える行為を妨げるもの

 日々時間に追われ、人生について深く考える時間がないことは既に述べた。

 

 ただ、根本的な問題なのは時間ではない。仕事をしていない時間に何をしているかだ。

 

 そう、過ごす時間が重要なのだ

 

 あなたは仕事をしていない時間、何をしているだろうか。

 

 テレビ、スマホ、ゲーム…。これらを見たり使っているのではないか。

 

 といっても別に「テレビとかスマホとかゲームとか脳に悪いからするな!」という極端な主張をするつもりはない。

 

 というかニートマンがそんなことをいうのもおこがましいだろう。そっこーで炎上するのが目に見えている。

 

 

 なので極端な主張をするつもりはさらさらない。ニートマンだって、テレビを見たりするのだ(当たり前か)。

 

 一般論として、これからの時代、テレビもスマホもゲームもなしで生活するのなんで不可能だろう

 

 テレビやスマホは世の中の情報を得るための重要なツールだ。

 

 ゲームだって、今この世の中からなくなったらそれはそれで世界はおかしくなるだろう。

 

 したがって、「テレビ、スマホ、ゲーム廃止論」は極めて危険であり過激であるので、なくせという人間の方が狂っている。

 

 私たちはこれらのツールと共存をしていかなければいけない。

 

  けれどもそれらに時間を「支配」されていないだろうか。

 

 特にスマホなどは操作の容易さ(人による)や大量の情報を短時間で手に入れられる便利さからついつい時間を気にせずに使ってしまうことが多いのではないか。

 

 テレビも少しでも面白かったら、ついつい垂れ流しで見てしまうのではないか。

 

 このことによって深く考える時間は中断されてしまうのだ。自分の現状などをいろいろ考えることをおろそかにし、目先の欲望に目がくらんでしまう(はちょっと言い過ぎだが)。

 

 深く考えなくなるということは自分の人生について真剣に考えることがなくなってしまうことを意味する。

 

 結果として自分の境遇を嘆きながらも、現状を変えようとしない姿勢が出来上がってしまう。サラリーマン川柳はその例といってよい。

 

 

 

 

  ツイッターでも言及した。深く考えなくなることで、現状を嘆きながらも、行動に移せない人が増えてきている、と筆者は勝手に思っている。

 

 スマホやテレビ、ゲームなしの生活は無理だが、その付き合い方を考えていかなけれなならない。

 

深く考えることは孤独で辛いが…

 深く考えることは孤独で辛い。誰の手も、有益な情報の力も借りることなく自らの頭で考えていかなければならないのだから。

 

 人生について深く考えることは決して容易なことではない。

 

 それでも深く考えていくことで自分で、自分自身の力で道を切り開いていく経験をすることができる

 

 今まで見えなかった、いや見ることのできなかった景色を見ることができるのだ。それは他の誰とも違う自分だけが見える景色だ。

 

 その景色を妨げる人間は誰もいない。自分でそれを作り上げてきたのだから。

 

 

 したがって深く考えることは時に孤独で、辛い作業だが、結果として自分自身の道が切り開かれていくのだ。

 

 深く考えず周囲と同じ道を歩むか、自分だけの道を歩むか、あなたはどちらを選択するか。

 


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