個性という言葉は厄介だ。
何をもって個性と言えば良いのか定義が曖昧だからである。
この厄介さゆえ混乱を招いていると私は感じる。
個性とは一体何なのか。
個性は外部の影響で伸ばせるものなのか
世間では「個性を大切に!個性を尊重しよう!」みたいな考えが根強い。
とりわけ学校では生徒の個性を伸ばそうと教員の方々は日々奮闘している。その際は生徒の持っている個性を最大限に伸ばすべく、生徒の行動を注意深く見なければならない。
しかし、ある疑問が生じる。生徒の個性はそのように外部の力で伸びるものなのか。そもそも個性なんて勝手に伸びるものなんじゃないか。人間誰しも生まれながらにしてその人特有の能力を持っている。
そのような能力って勝手に伸びていくのではないか。むしろ変に干渉してしまうと、かえって個性が伸びないのではないか。
そのように私は思ってしまう。
教育における本音と建て前
ただ学校という空間においては個性に対して本音と建て前が見え隠れしている。
建て前は生徒の個性を伸ばすと言いつつ、それは「ただし常識の範囲内で」という暗黙の了解が隠されている。
学校の目的は社会に従順な人材を輩出することである。そうであるなら、変に個性なんか伸ばし、周囲の言うことを聞かない生徒というのは都合が悪いのである。
そういうわけで学校では生徒の個性を伸ばすということがうまくできないのだ。
一律的な価値観における個性の埋没
日本では受験で成功し、良い大学に合格することが優秀であることの証とされている。
これは今も昔もほとんど変わらない。受験でうまくいった人をエリートとみなす以上、当然大部分の人は受験に時間を費やすことになる。
さして興味もないことをやらされ、それによってストレスを感じてしまう。これでは個性が伸びることは難しいだろう。
受験にも良い部分はある。知識や思考力を鍛えることができるし、それを継続する力もつく。
が、そのような教育が過剰に行き過ぎるゆえ、個性という人間が本来持っている能力が伸びなくなるのである。
ただ、この傾向はこれからも続いていくだろう。大学入試の改革が進んだとしても、価値観という本質的な部分が変わらない限り、受験で成功するという一律的な考えはかわっていかないだろうと思う。
そもそも疑問なのが社会人では「働き方改革」と言って労働時間をセーブするような動きが強いのに、学生に対しては勉強量を増やすのはなんだか変である。
この国の迷走はとどまることを知らない。