受験生は何の疑問もなく小説の問題を解いている。
センター試験では必ず小説の問題は出題される。配点が高いので落とすことができない。
だが私たちは根本的な問題に気付いていない。それは小説が果たして現代文という受験教科として妥当であるのか、という根本的な問題である。
論理性と創造性の対立
現代文というのは本来論理性があるのかどうかを確かめる試験である。最初の評論文は論理を追っていかないと解くことができない。そこに個人の感情が入り込むと、がっつり点数が引かれていく。
そう、冷静に客観的にあの長い文章を読み解かなければならない。このような力は必要不可欠である。書いてある文章を正しく読むことができなければ、そもそも他の教科もできない。物事を理解することができない。
そういった意味で論理性、客観性が求められる評論文というのは現代文という科目として極めて有効である。
しかし小説はどうか。小説の読解は論理性よりも創造性の方に重きが置かれる。というか小説とはそもそも創造的なものである。
もし小説が評論文と同様、論理性、客観性を重視するような文章であったならどうなるか。それは評論文と全く性質が同じものになる。
小説は読者によって様々な解釈が生まれるからこそ小説なのである。作者だって読者に共通の解釈なんて求めてないだろう。そのような意味で小説は論理性、客観性とは対極的にあるものである。
小説で論理性、客観性を重視したら
小説を評論文のように論理的に、客観的に読解させることを要求したらどうなるのか。
それは読者から創造的な感性を奪うことになるだろう。読み手としては「このように解釈し、こんなことが言える」という考えがあるのに、評論文のように論理性を求められたら、読み手個人の解釈は葬りさられてしまう。
そうやって小説すらも「共通の解釈」を多くの人に求めたら、もはや小説の存在価値はなくなる。
しかし、日本の入試が現にそのようなことをやっているのである。小説は現代文の持つ性質、つまり客観的、論理的に読ませることとは対極的なものである。それなのにその現代文という教科の中に組み込んでしまっている。
もちろん小説も書かれていることを正しく理解することは必要である。何が書いてあるのかわからなければ、個人の解釈や創造性なんて生まれないからである。書いてあることを正しく理解しないで読解できるなら、DQNだって夏目漱石や森鴎外の作品を読むことができる。
そんなことありえないだろう。
しかし、書かれてあることを正しく理解した後は読者の解釈に委ねられる。それが小説である。Aという解釈もあればBという解釈もあり、Cという解釈もあるのである。
それらの解釈を他人と共有することによって私たちはその作品の面白さを知るのではないか。
受験科目としての小説
これまで述べてきたことから、小説は論理性や客観性を求める現代文の科目として考えるなら、適切ではない。ただこれはあくまでも「論理性、客観性を求める問題」としては不適切なだけである。受験という科目として不適切であると言っているわけではない。
受験の問題として小説を出題することは妥当か。
それは大学側が「小説を創造的に読める学生」を求めているなら妥当になる。はっきりとそのような考えを持ち、受験生を取るなら小説を受験科目として課す意味が出る。
ただ、そのためには試験を課す大学側も「小説は論理性や客観性を求めるものではない」ということを理解していなければならない。では大学側はそのようなことをわかっていないのか。
そんなはずはない。
だから私立の大学を中心として小説を問題に入れていない。問題に入れていたとしても配点が低い場合がほとんどである。
受験生の頃の記憶が昔すぎるのであまり覚えてないが、いろいろな大学の現代文の問題をやって小説の問題を出題している大学はなかった気がする。
私は国公立大学を受けていないのでわからないが、国公立大学の二次試験もおよそ状況は似たようなものだと思う。
そういう大学の入試問題の事情を考えると、大学側も小説が現代文の性質としては不適切であることがわかっていると私は思う。
なので、もし大学が小説を問題として出題したいなら、例えば文学部などの推薦入試などで課すなら有効的であるといえる。で、その小説を読んでの自分の解釈を2000字前後で論理的に記述させるような試験を課せば、小説が受験科目として意味を持つようになる。
そもそもマーク式の試験で創造性があるかどうかの力を見ること自体不可能なのだが。
小説について述べているのに現代文の参考書を貼るオチ笑笑。