たった1600円+消費税を出すだけで生徒、あるいは自分の子供の人生を劇的に変える可能性がある。
『「学力」の経済学』という本を読んでの感想だ。この本を読めば、教育にはいかにデータとエビデンスに基づいた科学的方法論が重要になるかがわかる。
それと同時にいかに現在の日本の教育がそのような科学的方法論とは対極にあるのかを理解できる。
『「学力」の経済学』、この本は教育の関係者や現在子供を育てている、あるいはこれから子供を育てていく予定の親にとっては最良の本になると確信した。もちろん教育関係者や親ではない人が読んでも有益な本である。
ということでこの本の内容の一部と自分の感想を紹介していく。
幼児教育の重要性
「何かをやるのには何事も早い時期からやるのがいい」というのは誰もが理解していることだろう。勉強にしろ、スポーツにしろ子供が幼い頃からやらせた方が当然周囲に大きな差をつけることができる。
教育においても同じことが言える。と言っても、勉強の内容それ自体を早くから教えるということではない。
確かに就学前から多少の勉強をさせておいた方が良いが、それ以上に「非認知能力」の向上がかかっているからだ。
「非認知能力」とは何かというと、社会で生きて行く上で必要な誠実さや忍耐力、社交性のことを指す。
就学前(つまり幼稚園の段階)の子供たちに良質な教育を施した結果、彼らの「非認知能力」が向上したという(詳しくは本にアメリカの幼稚園で実際に行われた例が載っている)。つまり社会的適応や忍耐力、学習意欲が教育を施されなかった子供たちよりも高かったというデータが出た。
さらに「非認知能力」の高さは将来の社会的地位や年収にも大きく影響することがわかったのだ。
これは日本にありがちな「勉強さえさせれば将来安泰だ」という主張が間違っている(とまでは言えないが)ことを示すのに十分すぎるほどのデータである。
社会では(会社に限らず学校などでも)、人間関係を円滑にこなす力や(日本のソンタクでは断じてない)、自分で目標を立て達成する力など、勉強とは関係ないこれらの能力が重要になってくる。
そのような「非認知能力」が高いことはそれだけ社会で優位に生きられるということである。これも働いている人ならなんとなくわかることだろう。
就学前の子供に良質な教育を施すことによって、「非認知能力」が向上し結果として高い社会的地位、収入を得ることができるというのである。
「非認知能力」について知ると、なぜ昨今高学歴の学生が事件を起こすのかが理解できる。彼らは確かに学力が高いが、この「非認知能力」が欠落しているのだ。
勉強は得意であるが、社会で円滑に生きて行く力(自制力や他者との関わっていく力)がないゆえ非行に走ってしまうのである。
と同時に、皮肉だが受験はいかに情報戦であるかもわかるのだが。
子供の教育方法
これは親であるなら、誰でも関心を持つだろう。
ご褒美問題
・テストの点数が高かったらご褒美をあげる
・本を読んだら(あるいは宿題をやったら)ご褒美をあげる
この2つのうち、どちらが効果的だと思うか。
ごく一般的に考えてみれば、テストの点数でご褒美をあげる方がベターだと思う人が多いと思う。
だが違うのだ。学力テストにおいて高い点数を取ったのは、後者の本を読ませたり、宿題をさせることでご褒美をあげた生徒の方だったのだ。
なぜか。
それは方法論を知っていて、実行しているかどうかに差が生じたからである。つまり、「テストの点数を高かったら、ご褒美をあげる」と言われても、それを達成するにはどうすれば良いかがわからないのだ。
あなたが仮に子供だとして実際にそう言われた場合を考えてみればわかる。いきなり「テストで高得点を取ったらご褒美をあげる!」と親に言われても、ぶっちゃけどうすればよいかわからなくないか?
一方「本を読む、宿題をする」ということならやるべきことが明らかである。ただそれらをやればいいだけだから。で、自分でどうすればいいかがわかるのですぐに実行できる。そのようなプロセスで自分で勉強する習慣がつきテストの点数に結びつくのだ。
要するに「勉強のしかた」がわかるかわからないか、というのがテストの点数に大きく影響してくるのだ。「読書や宿題をさせる」という行為はその勉強の仕方を身につけられる一方で、「高得点を取りなさい」というのは、方法論が漠然としていて子供には難しいのだ。
褒めるか問題
次に子供を褒めるかどうかの問題である。最近では、というか今に始まったことではないが、子供を褒めることが良いとされている。
なぜ褒めるかと言えば、そうすることによって子供の自尊心を高め、より一層勉強に対するモチベーションを高めさせる、というのが一般論であろう。
そうすると、褒める→自尊心を高める→勉強のやる気がわく→成績が上がる、という考えに信憑性を感じてくる。
しかし、順序が逆なのである。勉強ができ学力が高くなる結果、自尊心が高まるのでのだ。別に自尊心が高いからと言って成績が向上するわけではないのだ。
なので自尊心→勉強ができるではなく、勉強ができる→自尊心が高くなるのだ。
しかもこの自尊心、非常に厄介である。バージニア連邦大学のフォーサイス教授は試験の成績が悪かった生徒に毎週メールを送った。
その内容は自尊心を高める内容であった。つまり「君ならできる!」みたいな内容だ。
するとそのようなメッセージを受けた生徒は次の期末試験の成績が有意に低かったことが示された。
このことが何を意味しているかというと、成績の悪い人間に自尊心を高める介入をしたことによって、彼らから悪い成績を取ったことに対する反省する機会を奪い、しかも根拠のない自信を植え付けさせる結果を招いてしまったのだ。
まあつまり、「ボクチンは成績が悪かったんだけどやればできるんだい!!!」という生徒がでてきてしまったということだ。なおこの「ボクチンはやればできるんだい!!!」という記述は本書に一切書かれていない。
できないし、やらないし、そのくせに自信だけは人一倍、これじゃあどこぞの政治家と同じじゃないか!!!!!!!←消えてねえ!
というか自分の子供がそんなふうになったら嫌だろう。そんな子になってしまったら、子供だけでなくあなた自身もママ友の迫害を受けることになるだろう。
ただほめることそれ自体が悪いというわけでなく、どういう状況でどうほめるかが重要なのである。
褒め方
むやみやたらにほめると痛々しいナルシシストが出来上がってしまうことをわかっていただけただろう。ではどうやってほめれば良いのか。
ここでまた問題である。
・頭が良いことを褒める
・頑張ったことを褒める
これは頑張ったことを褒める方が効果がある。なぜなら頭が良いことを褒めることはイコール子供が持っている能力そのものを褒めることになる。
そうした場合、テストで良い成績を取った場合、「ボクチンに才能があったからだ!」と解釈してしまい、悪い成績を取った場合、「ボクチンの才能がなかったからだ…」と解釈してしまい、どちらにせよ努力を継続することをしなくなってしまう。
一方、勉強に対する努力を褒めた場合、たとえテストの成績が悪かったとしても「自分の努力が足りない」と解釈し、努力を継続するようになる。
ゆえに頑張ったことを褒めた方が効果が高いのだ。
何度も書くが「ボクチン」という表現は本書では一切書かれていない。
教師の質を高めることの重要性
教員の「質」に関する研究をリードしてきたスタンフォード大学のハヌシェク教授によると、もともとの学力の水準が同程度の子供たちに対して、能力の高い教員が教えた場合、子どもたちは1年で1.5学年分の内容を習得できたのに対して、能力の低い教員が教えた場合は、0.5学年分しか習得できませんでした。『「学力」の経済学』p.142より引用
海外では日本よりも教員の質を重要視している。引用からもわかるように教師の質は子供の学力に大きな影響を与えるのだ。
ではもっと具体的に質のよい教師とはどのような教師なのか。それは子供の学力を上げるだけでなく、10代の望まない妊娠をさせる確率を下げる、生徒の将来の大学進学率を高める、生徒の将来の年収を高めることができる教師である。
日本では特に公立では教師の当たりはずれが大きい。それにJKやJCに手を出して捕まるやんごとなきお方も一定数存在する。というか身の安泰を重視し生徒の持っている可能性を踏み潰すような教師も存在する。
地方に住んでいる人ならわかると思うが、大体二番手、三番手のような自称進学校(ですらない。大学のレベルに関係なく、ただ単に大学進学率が高いような学校)はえてして生徒のモチベーションを下げる教員が多い。
そんなんだから、学校のレベルもさることながら、教師の質も高校の偏差値で結構ばらけている。
いや、そもそも優秀な方々は大部分予備校や塾の講師になったりする。皮肉だが、考えてみれば予備校や塾で教える方がメリットが大きい。
身の安泰という点で言えば一般の教師より不安定であるが、生徒の成績を上げ、結果を出していったら、収入はアップする。それに自分の裁量で指導できるので学校のように決められたテキストを使う必要がない(塾だったら決められたテキストを使わなければならないが)。
さらに生徒の学力のレベル別に教えられるので、できる生徒をさらにできるようにし、できない生徒をできるようにすることができる。
あれ?これ学校よりも理性的なシステムではないか。と書いてしまったら日本の教育というのは実は予備校講師によって支えられているということがわかってしまった。
というか私自身、優秀な予備校講師の書いた参考書や問題集のおかげでそれなりの大学に合格することができた。私と似たような人も結構いるだろう。
若干本の内容とはずれてしまったが、教える人間が優秀で生徒の潜在能力を伸ばせる人が重宝されるという点では学校であれ、予備校であれ同じである。
ただそのような方々が学校という教育現場に流れず、結果人材不足となっているのは残念な事実である。
日本は科学的手法に基づいた教育が足りない
『「学力」の経済学』の著書である慶應義塾大学の中室牧子教授は「日本にはまだ科学的手法に基づいた教育が足りない」と主張していたが、私もそのように感じる。
というか、科学的手法に基づいた教育が浸透していないから、日本の教育は迷走し続けるのではないのだろうか。
本来であれば、これまで述べたように幼児教育を充実させたり、教師の質を高めたりすることをしなければいけないのに、いきなり「試験のシステムを変えちゃえ!」と叫んで教育現場に大きな混乱をもたらしている。
根本的な問題に向き合うことなく、センター試験のシステムをごちゃごちゃいじくったところで本質的な問題は解決しないだろう。
むしろ科学的手法を無視したお役人たちの教育政策が今、明るみになっているのではないだろうか。東大や慶應の一部の学生の問題行動、多浪や女子受験生の差別、これらは決して偶然に起こっているのではないのだ。
「非認知能力」の向上、優秀な教員の育成、これらがしっかりと国全体でできていれば、上記のような事件は起きなかったのではないだろうか。
教育なき国はやがて亡びるだろう。