Sakuはゆるく生きる

外国語系の記事が多くなりそうです。

便利さに慣れるとイラつくことが多くなる話

 私は大型の本屋に行くのが好きな人間である。

 

 で、大型の本屋となるとスペースがかなり広い。ということは無邪気な子供とかがそのような本屋に来ると走り回ったり、はしゃいだりする、みたいなことが起きる。

 

 最初に言っておくが、別に私がそんな子供にイラつくとかそういう話じゃない。

 

 週末になると、多くの子供連れの親が本屋に来店する。

 

 どうなるか。

 

 予想通り子供が「楽しむ」。

 

 私が注目するのは親の対応だ

 

 子供が静かにしなければいけない場所ではしゃいだりすると、当然親は注意する。

 

 これはよくある話。

 

 でも、ママの子供に対する注意が結構キツイ。というか注意というよりかはキレている、みたいな印象を受けてしまう。

 

某書店での会話

ママ:「もう!!走り回るだなんて何してるのよ!!!あれほど注意したのにまだわからないの!!!!??????今度やったら置いてくからね(怒怒)!!(ぺシッ)(で、スマホをいじりだす)」

 

まだ小学校に上がる前(と思われる)子供:「ごめんなさい、、、、、(声をあまり出さずにもう人生で最大の不幸なんじゃないかぐらいの表情で黙る)」

 

それを傍から見るアウトサイダーな私:「(その光景をチラ見しつつ)うわ~こえ~、、、。あんな怒られ方されたら将来絶対輩になるわ~」

 

 まあでもこういう光景は決して珍しくはない。このような光景はあなたも目撃したことがあると思う。書店じゃなくてもレストランとかカフェなどでもこういう光景はよくある。

 

 だが、以前よりもなんだが自分の子供にキレるレベルが上がっているような感じがする。というかなんか露骨にキレている親が多いような気がする。

 

 なぜなのか考えてみたら、ある考えが浮かんだ。それを書いていこう。

 

 

 

便利なものとストレス

 スマホとかマジで便利だ。大げさでもなんでもなく、指一本で大体のことができる。

 

 とりあえずタップにフリックでもしてればいろいろできる。買い物だって出前だってポチるだけで全てなんとかなる。

 

 スマホだけじゃない。身の回りの電化製品とかもボタン1つでだいたい何とかなる。

 

 私は第三身分の最下層なので持っていないが、食洗器なんて食器とかグラスをとりあえずぶち込めばあとは全部やってくれる。

 

 テレビだってエアコンだってボタン1つで全て完了する。

 

 言ってみれば、手っ取り早く、全てのモノが自分の思うように動く

 

 見方を変えると、自分の思うようにならないと、ムカつき具合が尋常ではなくなる

 

 こういう思考が身についたらどうなるか。

 

 人間すらも自分の思うように動くと錯覚してしまう。それが露骨に子供にキレる親だろう。

 

 (いや、もう私の発言自体が老害かもしれない。文明の利器を批判するだなんて。まだ20代なのに)

 

 子供なんて大人の言うことを聞くことなんてほぼない。まれに良い子もいるが。

 

 言うことを聞かなくて当たり前。

 

 でも、「物事は自分の思うように動く」という思考が日頃から形成されているため、「自分の思うように動かない子供」に対し、激しいフラストレーションを感じる

 

 それが昨今の親、というよりかは人間じゃないか。

 

 しかもとりわけ日本はそういうキレ具合が強いと思う。なぜならあまりにも全てが便利すぎるからだ。なにもスマホとか家電製品だけじゃない。

 

 電車とかだってちゃんと時間通りに来るし(諸外国に比べれば)、接客のクオリティがかなり高い。

 

 飲食店とかだって24時間営業のところもあるし、欲望を満たすのに十分な環境が整っている。

 

 そういう便利すぎる環境にいるからか、ちょっと不備があるとイラつく。それが日本だ。

 

 外国とかなんて定刻通りに電車とかこないし、接客とかも日本と比べればテキトーである。なのである程度は不便なこと・ものには慣れている。

 

 

 そういう国の文化の違いもあり、日本人はキレやすいんじゃないか!?と私は思ってしまう。

 

便利さに慣れることで思考と感情が原始人と同じになる

 もー老害すぎる。もうこれ批判でしかない。

 

 便利とは何か?と考えると、難しいことを考えずして最短距離で目的を達成できることだ。

 

 (辞書にそう定義されているのではなく、勝手に自分で考えた)

 

 スマホを例に出すとわかりやすい。

 

 指動かして操作するだけで買い物、決済、連絡、あらゆることができる。そこに難しさなんてない。いちいち考えるというめんどいことはしなくてもいい。

 

 それでいて自分の目的を達成することができる。

 

 難しいことなんてないから考えなくてもいい。最高にラクだ。

 

 でも考えない生活を送るとどうなるか。考えること自体面倒な所業になり、考えないライフを送ることになる。

 

 考える習慣がなくなるとどうなるか。思考力が衰える。当然のこと。

 

 そうなると行き着く果ては原始人である。

 

 原始人の生きていた時代はテレビもスマホもインターネットもない。電気も水道も車もない。だから考える環境がない。

 

 まさか哲学とか科学とかそんなものもあるはずがないのだから、必然的に思考は単純になる

 

 考えなければならなかったのはその日の生活をどうするかということぐらいだろう。

 

 となるとやることはせいぜい、マンモスを倒し、食料を確保し、住居を確保することぐらいだろう。

 

 単純な思考でその日の生活を維持できる。これほど簡単なことはない。

 

 今も結構似てないか。もちろんマンモスを倒し肉を食らうというのはありえないが、さして難しいことも考えずに生活を維持できるというのは原始人の暮らしと同じである。

 

 となると、私が椅子に座ってスマホをタップにフリックして商品をポチるというのは原始人があぐらをかいて打製石器を研ぐのと似たようなものだろう。

 

 マックで子供そっちのけで、ビックマックとフラポほおばりながらスマホをいじるパパだって、マンモスの肉を食らいながら打製石器と研ぐ原始人と同じである。

 

 考えないという点に関しては。

 

 考えなくなると頭が弱くなるので感情もそれだけ単純になる。

 

 ウザい・キモイ・エモい・ヤバい

 

 せいぜいこういう感情しか生まれない。

 

 原始人だってウザいとかエモいとかではないが、「うれしー!!!たのしー!!!悲しー!」という単純な感情だったのだろう。

 

 

 んで、思考が短絡的になるとどうなるか。

 

 待ち受けているのは戦争であろう。

 

 「マジアイツムカつく」

 「ぶっ殺そう」

 

 複雑に見えるこの世界は単純な感情で動いている。by『世界には愛しかない』

 

不合理なモノ・コトを受け入れる

 私たちはあまりにも便利なモノ・コトに囲まれすぎて生きている。だからちょっとうまくいかないことがあるとイラつくのも仕方がないといえば仕方がない。

 

 それでも「世の中は不合理で自分の思うようには動かない」ということを受け入れることが重要だと思う。

 

 といっても別にスマホとかネット、電気、水道なしの自給自足な生活に戻れとかそうう意味ではない。

 

 それは現実的に不可能なことだ。というか私はそんな生活絶対ムリゲーだ。

 

 スマホ電気水道電車飛行機ipodこれらがなくなると露頭に迷うだろう。

 

 んまあ、難しいと思うが意識を変えることが必要だ。

 

 「世の中なんてそんなもん」

 「うまくいかないことも多々ある(多々ではなく全てにすると絶望しかない)」

 「あんまり人に期待しない方がいい」

 

 こういう気楽な考えを持つことで「完全なる合理的思考」はいくらかは修正することができる。

 

 あとは日常の生活で考える機会を多くすることかな。これは別に本とかでインプットしなくても街とかを歩いててもできることなので実践していったほうがいい。

 

 

 便利なモノは万能ではない。これを覚えておこー。