Sakuはゆるく生きる

外国語系の記事が多くなりそうです。

大学入試を人物重視にしたら受験生はどうなるのか?

  あけましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いします。

 

 2019年になりましたね!相も変わらずブログを書き続けていきたいと思います。

 

 ということで新年一発目。

 

 私、ブログは開設当初は「です・ます」を使っていたがもう使っていない。「です・ます」にするか「で・ある」にするかで与える印象が変わるので難しい。

 

 ということで本題。

 

 もう今月は大学入試だ。受験生も正月関係なしで勉強しているんじゃないか。まあ多少一息ついても全然問題はないと思うが。

 

 私は数日前に大学の文系の学部を廃止したらどうなるか?&理系の学部を廃止したらどうなるか?みたいな記事を書いた。

 

www.penserblog.net

 

 

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 といってもあまりにも極端すぎるので所詮フィクションの域を出ないだろう。

 

 でも人物重視の入試となるとどうなるか。

 

 これは結構現実的に起こりそうじゃないか?2020年の大学入試の改革以降。

 

 ということで大学入試をもし人物重視にしたらどうなるかを考えていこう。

 

 ただ、細かい条件設定をすると、いろいろややこしい問題が顕在化するので(何十万人いる受験生をどうやって面接するんだ!?とか)、ざっくり筆記試験:人間性(面接とか学校の通知表とか)を3:7になると設定して考えてみよう。

 

 

 

大学が「恣意的に」受験生を取ることができる

 考えられる事態の1つはコレ。

 

 「人間性」で受験生を取るって結局そういうことだ。

 

 面接とかなんてもう面接する側の主観が入りまくりだ。「客観的に100%中立的に」判断するなんてできるはずがない。

 

 そもそも人間を完全なる客観性に身を委ねて判断するだなんて人類始まって以来なかったんじゃないか。

 

 そうなるともう「ルックスがアドバンテージ」という「恋するフォーチューンクッキー」みたいなことがザラに起きる。

 

 面接官が男性であれば、ちょっとかわいい女子の受験生とかを無意識のうちにひいきするだろうし、男性の受験生に対しては「あかぬけたちゃらそうな受験生」は敬遠するだろう。

 

 別にルックスだけではない。

 

 声のトーン、話すスピード、声の高さ、低さ、全体の雰囲気、あらゆる「主観的要素」が入り込み、客観的に受験生を判断することが限りなく不可能になる可能性が高い。

 

 だから、医学部の入試で多浪や女子の差別が話題になっているが、それとは比にならないぐらいに「不正」な入試がはびこるだろう。

 

 むしろ不正入試を正当化するといってもよい

 

 ではもし仮に100%客観的に面接で受験生を判断することができるとなるとどうなるか。AIとかを面接官にすればできなくもない

 

 100%客観的に受験生を判断することができるとなると、それはそれで恐ろしい。

 

 なぜならそれは、言ってみれば「人間らしさの排除」につながるからだ。

 

 その受験生の全体的な雰囲気、男性が女性か、声のトーン、声の低さ、話す速さ、それらは全て人が持つ個性である。

 

 世の中というのは様々な個性が混在することによって成り立っている。

 

 その個性を排除することになるのだから、要は個性の抑圧になる。

 

 個性的な受験生を獲得するために人物重視の入試をしたのに、皮肉にも個性を抑圧するという悲劇が起きることになる

 

 ということは人物重視の例として考えられる人物重視は、客観的に判断ができないゆえに恣意的に受験生を取るという受験生にとっては不幸なことが起きてしまい、仮に100%客観的に判断できるとしたら、今度はその受験生の「人間らしさ」を排除するというどのみち不幸な結果になる。

 

 

 今は一般入試と推薦・AO入試と多様な受験制度があるからいいが、完全に人物重視の受験となると、受験生にとっても大学側にとっても不幸なことになる、といえよう。

 

努力よりも「運ゲー」になる

 筆記試験より、面接や内申点とかが合否のカギを握ることになってしまうのだから考えてみればあたりまえかもしれない。

 

 一般入試というのは試験で点数を取りさえすれば合格できる。それ以外に必要なものなどない。

 

 高校3年間部活などに熱中しまくり、学校のテストはいつも最下位、みたいな人でも一念発起して勉強をし、受験に間に合わせればすべてが報われる。

 

 いや、別にそれで報われなかったとしても浪人してリベンジするというチャンスがある。

 

 何をしようにも自分自身の努力によってある程度はなんとかなる

 

 では面接重視、内申点重視となるとどうなるか。これは運の要素が強くなる。

 

 面接はわかると思う。最初の章でも指摘したが、大学側の「恣意的」な判断にゆだねられてしまう。

 

 いくら勉強をしたところで結局は「面接官のウケ」がよくないと合格することができない。

 

 運ゲーとはまさにこのことである。

 

 内申点運ゲー要素が強くなる。

 

 学校のテストというのは教師によって問題の傾向が変わってくる。

 

 もちろん「傾向に左右されないぐらいの勉強をすることは大切だ!」という意見があるのもわかる。

 

 だが、それでも予測のしずらさから点数が左右されるのは否めない。しかもそれが通知表に記載されるわけである。

 

 もし3を取ってしまえばそれは永久に変わることがない。「人物入試」の判断材料に使われることになる。

 

 一度犯した「罪」は消えないのだ。

 

 もっと言うと進学する高校によって、内申点を高くできるかどうかが決まってくる。

 

 例えば偏差値が65の生徒いるとしよう。彼が偏差値65の高校に進学するのと偏差値55の高校に進学するのとではどちらが高い内申点を確保することができるか。

 

 日本語がちょっとわかりずらいな。私の文章力のなさ。申し訳ない。

 

 偏差値65の生徒は偏差値65の高校と偏差値55の高校、どちらで高い内申点を確保できるか。

 

 と考えたら当然後者なのはわかるだろう。偏差値が10も違うのだからそりゃそうだろう。

 

 となると、その偏差値65の生徒にとっては不幸である。彼は本当は偏差値65の高校に行きたくてしかたがなかったのに、「内申点を確保する」ために本意ではない偏差値55の高校に行かなければならないのだから。

 

 この例は運の要素とはちょっと関係ないが、受験生の「運命」を狂わすといってよい。

 

 

 行きたかった高校を内申点を確保する、という理由であきらめ、本意ではない高校に進学しなければならないのだから。

 

受験生の人格形成に影響を及ぼす

 人物重視になるのは受験生にとってはつらい。

 

 常に「良い子ちゃん」に振る舞わなければならないのだから

 

 学校生活は常に品行方正を心掛けなけらばならないし、授業では積極的に手を挙げて発言しなければならない

 

 学ランの第一ボタンをはずして生活するなんて言語道断だ。スカートを短くするなんて公序良俗に反する。

 

 「恋愛禁止!」というAKBみたいなことが起こるかもしれない(それはないと思うが。てかあったらやばい)

 

 これは本当にきつい。そうやって抑圧されてきた人ってどこかで反動がでる

 

 私は社会人とかでおだっている人って学生時代に何かしら抑圧されていた人だと思う。

 

 本当は第一ボタンを開けたい、髪の毛を耳にかけたい、でも学校が許さない、その自分の欲望を押さえつけられた結果、社会人でやらかすことになる。

 

 「良い子ちゃん」にふるまわせるということは、そういうことである。

 

 生徒がつらい感情になり、その反動がどこかで爆発してしまう。

 

 というか、ぶっちゃけ高校生が第一ボタンを開けたところで、スカートを短くしたところで、髪にワックスつけまくったところでしゃあないんじゃない?

 

 そういう年頃なんだし、押さえつければ逆にエスカレートするだけでない?

 

 まあそうやって生徒が人目を気にしなければいけなくなるというのは人格形成においてはあまりよろしくないような気がする。

 

 で、「内申点稼ぎのために」、常に学校のテストは上位でいなければならない。部活に全力をささげていた人はそれがしずらくなる。

 

 コンスタントに勉強するよりも受験みたいな一発勝負が得意な人だっているはずだ。そういう人に過度にストレスをかけてしまうことになる。

 

 本当は好きなことに全力を尽くして「没頭する力」を解放することが大事なんだけどね。

 

 

 という風にもし大学を人物重視にすると受験生の人格形成にかなりストレスがかかったり、試験に客観性がなくなり、今の医学部の多浪や女子受験生の得点差別とは比較にならないぐらいに「不正入試」がはびこってしまう、可能性がある。

 

 んまあ、私は別に受験の専門家でもないので確かなロジックに基づいたことは書けないが、受験生にとってはストレスだろーなーとは思う。