お久しぶりです。少し精神病みがちで(東京暮らしのストレス)で日があいてしまいました。
みなさんご存知かと思いますが、張本勲氏のコメントが炎上しまくってますね。
大船渡高校の佐々木投手が決勝戦で投げなかったこと(厳密に言うと投げさせなかった)に、張本氏が批判的なコメントをしているようで。
まあ決勝前日にも100球以上投げているので、登板させなかった大船渡高校の処置は極めて賢明だったと言えるでしょう。
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と「今」の私たちならそう考えるでしょう。
「今」ならば……
でも、ひと昔前(昭和~平成の半ばぐらい)だったらどうでしょうか。
おそらく私たちも張本氏と同じスタンスだったのではないか?と感じずにはいられません。
つまり佐々木投手を投げさせなかったことに強い非難をしていたのではないか!?と私は思ってしまいます。
なぜか。
それはその当時がまだ「根性論・精神論」が優勢だったからです。
斎藤佑樹投手(当時早稲田実業)と田中将大投手(当時駒大苫小牧)の決勝戦の記憶はみなさんきっと記憶に強く刻まれていると思います。
私も当時道民だったので手に汗握って試合を見ていたので今でもかなり記憶に残っています。
その時斎藤佑樹投手は決勝戦で178球、翌日の再試合では118球投げています。
でも、当時、そのことに違和感を感じていたり、おかしいと感じていた人は一体どれほどいたでしょうか。
2試合連続、それも甲子園という環境下で連投とか今の常識では狂っています。
しかし、そのことに強い非難をする人はほとんどいなかった。
それどころかみんなハンカチ王子とマー君の投げ合いにexciteしていた。
たとえ試合の過程で投手が肩を痛めても、けがをしても、それこそが野球の美徳だと感じていた人は少なくなかったと思います。
現在中日ドラゴンズの松坂投手だって甲子園で相当数投げています。
でも、そのことに懸念を抱く人はいなかった。
たとえけがをしてでも投げ続けることが美徳だった時代ならば、張本氏の佐々木投手のコメントもきっと支持され礼賛されていたのではないか?と思います。
このことからわかるのは、物事の善悪を決めているのは出来事それ自体ではなく、私たち自身なんですよね。
で、私たちはマスコミの情報に強い影響を受けている。
マスコミがあることを悪いと言えば、私たちもつい悪いことだと思ってしまう。一方、マスコミがあることを良いと言えば、私たちも良いことだと思ってしまう。
良くも悪くも。
もちろん佐々木投手を連投させるのは当然良くないことですが…。
思うに、私たちが高校野球に対する甲子園のあり方、投手の連投に対する考え方が変わっていったのは、高校野球とは関係ないですが、電通の女性社員の過労自死事件が起こって以降なような気がします。
ある大きな社会問題が起きて、そこから、日本社会のあらゆる点がおかしいと考え始めた。これもマスコミの影響が大きい。
それ以前(つまり過労自死事件が起きる前)はとにかく根性論・精神論が徹底的に重んじられていたように感じます。
高校野球ならば、練習中に水の飲むのはけしからんこと、投手が連投するのは素晴らしいこと、けがをしようともそこにある種のドラマがあれば、事件ではなく人々のストーリーであり続けた。
社会においては、とにかく長時間働き続けること、体、精神が崩壊しようともただひたすらに頑張り続けることが美徳とされていた。職場環境がクソであろうと、上司がゴミであろうと、とにかくどんな環境でも徹底的に我慢をし、定年まで耐え忍ぶことが素晴らしいこととされた。
でも今ならそれらの事は全て狂っている、ということになる。
そう、私たちの常識はいとも簡単に変わってしまう。
それもマスコミ、世論の影響によって。
これって考えてみると恐くないですか?
私たちが当たり前だと思っていたことがある日突然非常識なことになってしまう。
張本氏の意見がけしからん!という人の気持ちはもちろん共感できますし、佐々木投手を登板させなかったことは全く正しいと思います。
ただ、それは世論が味方をしただけであって、実は私たちの根本的な思想から判断したのではない、と思うと事態はかなり厄介なことだと思います。
今回の問題は単なる「張本氏の発言炎上」ではなく、もっともっと深いものになっています。
繰り返しますが、物事の善悪を決めているのは出来事それ自体ではなく、私たち自身である。
私たちの常識はいとも簡単に崩れ去る。
そのことを強く認識しなければいけないと思います。
なんか高校野球の話題とは全然関係ないものになりましたが、私たちは今一度自分自身の思想が自分自身で考え抜いたものなのか、それとも外の影響(マスコミなど)によるものなのかを考えなければいけませんね。
そういうことを深く考えなければ、社会が最悪の方向にいきかねません。
以上。