今は「常識を疑うこと」がデフォルトになっている感じがありますよね。
権力者が言ったことに対して、それが正しい!と無条件に思う人は昔に比べると少なくなっている印象があります。
最初から懐疑的に、批判的に考える人が多い。
常識を疑うことはとても重要だと思います。
常識を疑うことで、これまでの社会システムやライフスタイルが改められ、新しくなるのは、歴史が示す事実です。
日本も、常識を疑い続けたからこそ、おかしな労働環境が是正されたりして働く環境が良くなっていきました。
常識を疑うことは大事です。
しかし、常識を疑いすぎると、かえって無礼者になってしまいます。
というか、現に無礼者になっている人が結構いるように感じます。
そもそも常識とはどのような意味なのでしょうか。
デジタル大辞泉によると、常識とは、「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力」だそうです。
一般の社会人が共通に持つ知識や意見、判断力…。
なるほど。
常識を疑うとは人々が共通に持っている知識や意見、判断力を疑うということか…。
これ、過剰に疑いまくると、確かに無礼者になってしまいます。
例えば、極端な例ですが、「なぜ赤信号は止まれなのか」について疑い始めたら車や人が暴走しまくり、道路がめちゃくちゃになります。
「赤信号?知るかよそんなもん!誰がそんなもん決めたんだよ!うぜーんだよ!」なんて言ったもんだったらもうアウトレイジですよね…。
他にも「時計はなぜ右回りなのか」について疑問を持ったら、もうわけわかんないですよね。
(もしかしたら既存の物理学の常識に変革をもたらすかもしれませんが)
このように、わざわざ疑う必要のないものを疑うようになると、ただのアウトレイジの無礼者になってしまいます。
で、そういう人間が多数派になったら、冗談抜きに潰れるでしょう。
疑わなくてもいいことをわざわざ疑う人にはある特徴があります。
彼らの特徴として、
・自分の言動に責任を持たない
・相手が不愉快になることを平然と言い放つ
・マウンティング欲が強い
・自分で稼げない人をdisる(給料だけで生活している人)
・小中学校で習う基礎知識が欠落している
なのにやけに強気
このような特徴があります。
いっちゃアレですが、そもそも常識というものを最初から持ち合わせていないから常識が何かわからないんですよね。
だから疑う必要のないことをわざわざ疑い、自己満足して(Twitterで)マウンティングしまくる。
もっと言うと、裸の王様ですかね。
常識を疑うためにはまず、常識が何かを知る必要があります。
そのうえで既存の社会システムやライフスタイルを疑うと、いままで全く不合理だったことが改められたりして人々の思想や生活が変わっていきます。
って考えると、常識を疑うことってさじ加減が難しいですよね。
どこまでを疑い、どこまでが疑わなくてもいいことなのか。
その線引きを取れるようにするために、知識というのは必要なんですよね。
ということで今日は以上です。