Sakuはゆるく生きる

外国語系の記事が多くなりそうです。

ただ生きればよいと思う

 私は基本的に読者層というのは気にしていない。

 

 (今のところだけど。もしかしたら今後は気にするかもしれないが。)

 

 だから、どういう人が見ているのかとかは基本興味がない。文章を書くのが好きなので、好き勝手書いている。

 

 確かに読者層とかSEOとかを気にした方が、今よりアクセス数が伸びることはわかっているんだけど。

 

 前置きはここまでで今日は生きづらさ的なことを書いていく。

 

 

 

ただ生きることが許されない社会

 現代は、ただ生きることが許されていないように思う。私たちは何かしら目標をもって生きることを社会から「要請」されている。

 

 「無職です」と言ったならば、冷たい目で見られる。特にこれは地方にありがちな傾向だが、まあそんなことはどーでもいい。

 

 昨今の日本の劣悪な労働環境の報道もあって少しは、「勤労の美徳」に対する見方も変わってきたが、依然として働かないことに対する偏見は根強い。

 

 テレビや新聞を見れば「就職ランキング」やら、「給料が多い会社」やら、「就職しなかったらどうなるか」みたいな煽り情報で満たされている。

 

 働き方改革といっておきながら、労働者の状況はほとんど変わっていない

 

 相変わらず労働者は苦しい生活を送っている。

 

 嫌いな事、いやなことを無理やり頑張り成果に見合わない給料をもらい日々を過ごしている。

 

 電車の中のビジネスパーソンを見てみればいい。およそ皆イラついた表情でスマホをいじっている。

 

 外国人はこのような日本人を見てどう思っているのだろうか、と私は思ってしまう。

 

 首都圏に住んでいる人だったらわかると思うが、外国人の数(たぶん観光客!?)、多くないだろうか。

 

 私服で快活に、電車の中で楽しそうに話している。一方、私たち日本人はスーツ姿でイラつきながら、スマホをいじり、ちょっと誰かとぶつかろうものなら、過剰なストレスがたまる。

 

 

 赤ん坊が泣いていれば、多少なりともストレスをフラストレーションがたまる人がいるだろう。

 

 外国人と日本人、見事なコントラストである

 

 ここは日本である。日本であるにもかかわらず、なぜ私たち日本人が日々不愉快に生きなければならないのだろうか。

 

 この事実こそ、私たちがただ生きられていなことを如実に示している。

 

 なぜ同じ人間なのにこうも生き方が違うのだろうか。

 

 私は電車の中でそういう風に思ってしまう。

 

 本来、私たちは自由に生きてもいいはずなのに……

 

 世知辛い世の中である。

 

 

 

ただ生きているだけでも尊い

 本来人間に限ったことではないが、あらゆる生命体は生きているだけで尊い、と私は思う。

 

 そもそも生命はあらゆる偶然の積み重ねによって生じる。あなたの両親が出会っていなければ、あなたは生まれていないだろうし、その両親の親が出会っていなければ、両親はそもそも存在していない。

 

 そういう中であなたが今存在しているのは奇跡である。あらゆる偶然を乗り越えあなたは生まれてきたのである。

 

 それだけでも尊いことである。貴重なことである。

 

 あなたはただ生きているだけでも貴重で、尊いのだ。

 

 地球はあなたが存在することを望んでいる

 

 今引きこもっている人、無職な人、自殺を考えている人、地球はあなたが存在することを強く望んでいる。

 

 ただ生きているだけで十分なんだ。

 

 そもそも日々生きること自体が奇跡だろう。

 

 

 世の中には若くして病気で亡くなったり、事故で命を落としてしまう人だっている。

 

 そのようなことから、ただ生きているだけでも十分な奇跡なのである。

 

 周囲の雑音なんて気にしなくていい。「就職しなければいけない」とか「給料が多い」とか「○○の企業は学歴フィルターがある」とか、「無職は世間的によくない」とか、そんな煽りなんて一切耳を傾けなくていい。

 

 あなたはただ存在するだけで重要な役割を果たしているのだ。

 

 高学歴とか大企業とか、そんなの頭の悪い人間が作り出した幻想に過ぎない。

 

 知識に支配された愚か者の戯言である。

 

 引きこもりとか無職の人だけではない。

 

 今劣悪な労働環境で働いて心身共に参っている人。そんな会社を辞めたところであなたの人生は終わらない。

 

 これからも人生は続いていく。仕事をとるか、今の劣悪な労働環境をとるかの選択肢はあなたに委ねられている。

 

 繰り返し強調するが、人間はただ生きているだけでも十分尊いのだ。

 

 シンプルな原則なのに、皆このことを忘れている。

 

 日々の仕事に追われ、考える暇がなくなってしまっているからじゃないだろうか。

 

 加えて、どうでもいい雑音があまりにも多いからだろう。

 

 雑音が多すぎて、それらが正しいと錯覚してしまっていると思う。

 

 「○○のスキル向上!」、「自分の市場価値を高めろ!」、「英語ができなければ…」、「ビジネスパーソンは○○が大事」。

 

 一体これらはあなたにとってどれほど重要なのか。

 

 人生おいてどれほど重要なのか。

 

 それらが好きであればいい。しかし、好きでもないのに「社会が必要としているから」という理由であれこれ気にするのは雑音が「正しい」と錯覚している。

 

 今一度自分について考える必要があると思う。私たちは。

 

すべてを効率的、合理的にとらえることの弊害

 

www.penserblog.net

 

 以前私は物事を効率化することに対して肯定的な意見を書いた。

 

 確かに物事を効率的に合理的にこなしていくことは大事だ。そうでもしなければあなたの優しさを「食い物」にするゴミ企業を根絶することはできない。

 

 しかし、その効率性や合理性が過激になるとどうなってしまうのか。

 

 それはただ生きることができなくなってしまう。

 

 ただ生きるという行為は効率性や合理性を全く度外視したものである。

 

 

 現代ではこの効率性や合理性が過激になってしまっていると私は感じる。

 

 もちろんだからと言って昔の古き良き時代の日本にもどるのが大事だと言っているわけではない。

 

 確かに重要ではあるが、あれはあれで非効率すぎる。

 

 あるセオリーや計算式に当てはめれば、だいたい予想した通りになるという考えは確かに便利である。

 

 そのような効率性、合理性のおかげで「無駄な不幸」を被ることは少なくなった。自分の欲しいものも手っ取り早く手に入れることも可能になった。

 

 が、そういう行為になれてしまうと私たちは人に対しても効率性、合理性を無意識の内に当てはめるようになってしまう危険性がある。

 

 「この人の人間性はこうだから、こういう風に扱えばいいだろう」というのが人間を合理的にあてはめることの典型的な例だろう。

 

 本屋に行けばそういう類いの本がたくさん売っている。

 

 で、合理的に、もっというと思い通りにいかないとどういう行動に出るのだろうか。

 

 それが「むかついたから殺した」、「だれでもいいから殺したかった」である。

 

 効率性、合理性は確かに便利だが、思い通りにいかなかったときの反動があまりに大きいのである。

 

 私たちは2進法に支配されている。

 

 

 ニュースを見れば自分の子供を殺害する親が報道されるが、現代の効率性、合理性の弊害と決して無関係ではないだろう。

 

 赤ん坊は目的をもって生きているわけではない。理性はまだまだないに等しいのだ。

 

 ただ生きているのである。そのただ生きる存在を簡単に殺してしまうのは、効率性、合理性に慣れきってしまった結果であろう。

 

 電車の中で赤ん坊の泣き声にストレスを感じるのは……もう言う必要はないだろう。

 

世の中は不合理と不条理で満ちている

 そもそも世の中は不合理であり、不条理である。あなたが真面目に生きたところで報われるかどうかはわからない。

 

 あなたのその真面目さを利用しようとする人間は一定数いる。そのような人間が得をしてしまうことが多い世の中だ。

 

 悲しいが現実的にそういうことが多い。

 

 だからこそである。あなたは自分のことを第一に考えて生きるべきなのである。くそみたいなやつらでさえ、平然と生きているのだから、真面目に生きているあなたはなおさら生きる権利がある。

 

 周囲のいらん雑音に耳を傾けずに生きてほしいのだ。

 

 周りが世間体のことばかり言ってきてもあなたはそれを気にする必要がない。

 

 嫌なものは嫌だと主張すべきである。それを言ったところで世界はびくともしない。

 

 この主張ができない人が多いように思える。それゆえに、クソ企業が幅を利かせ、労働者をコケにしているのである。

 

 労働時間が長いのに低賃金であったり、人間関係がうざかったり。

 

 私たちは気付くとただ生きることができない環境に身を置いているのである

 

 つまり、不合理と不条理で満ち満ちた世界に身を置いている。

 

 だからそのような世界から極力避けて生きるために自分のことを第一に考えよう。

 

 しかし真面目な人ほどそれができない。

 

 そもそも自分のことを考えることができなければ、他人のことを考えることができない。

 

 自分のことを考えず、他人のことを考えるとかそんな虫のいい話はない。

 

 自分のことを考えるというのは別に他人に無関心で相手の迷惑になることを言うのではない。

 

 そうではなく、自分の直観に従い、自分にとって理想的な人生とはなにかをしっかり考えることである。

 

 今は直観よりも理性が重んじられすぎているように思える。

 

 身近にそのようなツールが満ち溢れているからだと思う。

 

 別にそういうツールを使わずに生きていけと言っているわけではない。

 

 そんなことをしたら(スマホとか使わない生活をしたら)、時代に取り残されてしまう。

 

 重要なのは、どんなに物事を合理的に考えることができても、その中にうまくいかない不合理な要素があると強く認識すべきなのだ。

 

 そして、人生の決定権は世間にあるのではなく、自分自身にあるのだと強く自分に言い聞かせることである。

 

 そういう風なスタンスを取っていければ、ただ生きるということもできるんじゃないだろうか。

 


(146)自分のことだけ考える。: 無駄なものにふりまわされないメンタル術 (ポプラ新書)