今日は体育の日である。
みんな!!!私のブログなんて見てないで外で体動かそうぜ!!!
ということで今日のテーマは全員野球である。
私は野球が好きである。というか経験者だ。なので今年のプロ野球選手の引退の報道は結構驚いている。かなりスター選手の引退が多くないか?岩瀬とか荒木とか松井稼頭央とか本多とか村田とか山口鉄也とか小谷野とか。
だいぶ昔の話になるが1番松井稼頭央2番小関3番フェルナンデス4番カブレラ5番和田の時の西武が好きすぎた。で、9番高木浩之というのがもういやらしい。今も西武は好きだが。それにしても今年の西武イケイケですね。山川穂高最高すぎです。
話題がそれまくるのでここまでにしておく。
どうやら第4次安倍内閣は「全員野球内閣」になったらしい。
ネットを見れば好意的に見る人や否定的に見る人、様々な意見があることがわかる。「全員野球内閣」の評価については頭の良い人たちに委ねることにしよう。
私が述べるのは全員野球のごく一般的な考えについてである。前置きが長くなりすぎたので本題に入ろう。全員野球が機能するために必要なこととは?
個人の能力の高さ
全員野球はどうすれば機能するかと言われれば、個人の能力が高いことがまず第一にあげられる。試合に出るメンバーそれぞれが最高のパフォーマンスを発揮してこそ全員野球も機能する。
まあ別にこれは野球に限ったことではない。サッカーだってバスケだってバレーボールだってテニスやバドミントンのダブルスだって同じことだ。
俳句甲子園だって(この前NHKでみた)、個人の知力が高くてこそチーム全体の力を発揮する。組織が高いパフォーマンスを発揮するというのは個人個人の能力の高さあってこそだ。
なので当たり前すぎるが試合に出る選手が無能だったら機能しない。だが競争原理を否定的に見る昨今の風潮においては、このことを多くの人は見落としがちであるように感じる。
「みんなが幸せになればいい」、「わざわざ競争なんかしてもお互い傷つくだけ」という意見もあるだろう。私もこのようなことを完全に否定するつもりはない。
確かに世の中「競争こそすべて」ということになれば、ますます生きるのが嫌になる人も出てくると思う。というかそんなギスギスした社会なんて私だって嫌である。
しかしチームで動くということになればそうは言っていられない。団体で動いているのに何の成果も発揮しないのは見ていて無様であり、ミジメである。
野球の出来ない「ROOKIES」(映画と漫画のやつね)はただのヤンキーである。野球のできないヤンキーが「全員野球」をやっても試合に勝つことはない。
もっと言うと野球の出来ない「ROOKIES」が「全員野球」をやったところでそれは「全員野球」の名に値しない。というかそれは「全員野球」ではなく単なる「烏合の衆」である。
したがって全員野球、ひいては組織が機能するためには個人の能力の高さが必要不可欠なのだ。
人材を適性なポジションに配置しているか
個人の能力の高さに加えて重要なことは、その能力の高い人材を適性なポジションに配置できているかどうかである。
例えば4番ファーストのような選手を1番ショートにしたら、その選手の能力は全く発揮できない。まれにユーティリティープレーヤーがいるので、必ずしもそうとは言えないが。
3割30本100打点(年間盗塁数0)を打てる選手を1番から8番(指名打者なら9番)に並べてもそれで試合に勝てるとは限らない。パワプロだったら勝てるが。
そういう選手をずらっと並べて機能しないのは低迷する時の巨人を見ればわかる(全員3割30本100打点ではないが)。
つまり人によって持っている能力は違うのである。ホームランをガンガン打てる選手もいれば、盗塁・走塁に長けている人もいる。守備がものすごくうまい選手もいる(というか思うんだが、巨人、川相2軍監督を1軍の監督にしたほうがいいんじゃないか)。
そのようなそれぞれ違う能力を持った選手を適性なポジションに配置してこそチームというのは有効的に機能する。スタメン全員が筒香みたいな打順では機能しないし、スタメン全員が田中広輔みたいな打順でも同様である。
全員山田哲人みたいな選手だったらもしかしたら機能するかもしれないが。
個人の意識
能力の高さ、適性な配置に加え重要なことは選ばれた選手の意識である。
もう会社辞めた私が言うのも説得力なさすぎなさ杉君であるが、選手の意識がしっかりしていないとチームは機能しない。どんなに能力が高くても「へ、試合なんて俺一人の力で十分っしょ♪」みたいな選手が一人でもいたら軋轢が生じ、チームがまとまらない。
漫画などでもよくいるだろう。そのようなワンマン選手は。それと同じだ。
まあ現実世界でもそのような人はいるし、そのような選手に頭を悩ませている部員や顧問の方もいるだろう。せっかく能力が高いのに、チームの勝利よりも個人の活躍に重きを置いているがゆえにやっかいな存在なのだ。
「俺が俺が」ではだめなのである。自分が何をすべきなのかをしっかり把握し、場面場面に応じた打撃ができるような選手がそろっていなければチームは勝てないのだ。
そのように選手1人1人がしっかりした意識を持ち、自分の持っている能力を発揮すればそれはもう最強のチームである。結局勝てるチームは選手の意識が徹底しているからなのだ。
人間性
これは組織に限ったことではなく、全てに言えることであると思う。ただ野球ネタが中心なので野球をベースに話していく。
優れた選手であっても周囲に対する気配りや配慮をできなければ優れているとは言えない。優秀な成績を収め主軸を打つような選手でも、レギュラーになれなかった人やそもそもベンチに入れなかった選手のことを考えることができなければ、周囲からは尊敬されることはない。
根本的なことをいうと、自分が活躍できるのはレギュラーに選ばれなかった選手たちの支えがあってこそなはずである。彼らが試合に出られないにも関わらずサポートをしてくれてパフォーマンスは発揮できるのだ。
そのようなことを考えられない選手は人生において困難な状況になるだろう。勝者よりも圧倒的に敗者の数の方が多いのだ。
はたして政治家はこのようなことをわかっているのだろうか。
「全員野球内閣」という名称における重大な欠陥
「全員野球内閣」という名称において重大な欠陥があると私は考えている。それは何かというと野球を知らない人にとってみれば「全員野球」と聞かれてもよくわからない点である。
いや、野球を知らない人でも「全員野球」という言葉自体は知っているはずだ。だが野球というものを経験していないがゆえ、そんなことを言われてもイメージしにくいのではないか。
文化系の部活をやっている人にとってはますます???なことだと思う。
それにも関わらず、野球はさも私たちの共通言語であるかのように錯覚しこのような名をつけることはいかがなものかと思う。私は無知なニートであるので政権批判はしないが。
というかあなたの周りにもそのような人(上司やキモメン)はいないだろうか。つまり物事をやたらと野球用語を使って話したがる人たちが。ビジネスの場で「今の状況は3点ビハインドであるが、9回ツーアウト満塁の状況だ!ぜひ逆転サヨナラ満塁ホームランを打ってくれ!!」みたいな人が。
まあこれは比喩が意味不明すぎるが(じゃあ書くなという話だが)、やたら野球用語を使いたがる人たちは世の中に一定数いるのだ。
この種の人たちはビール(あるいはハイボール)と枝豆(あるいはから揚げ。若干韻を踏んでいる)を相棒にしてプロ野球観戦に興じている(それが悪いわけではないが)。
やっかいなのは野球用語を共通言語だと思っている点だ。これは世界を自分中心に見ていて、相手に対する配慮を全く考えていない。そのような人は日頃から自分以外の人間は何に興味をもっているのかということに無関心である。
その結果が「全員野球内閣」という名称である。