人を非難する時、多くの人は自分の状況は棚上げすることが多い。善良な人が不祥事を起こしたときなどはもう自分のことなどどうでもよく相手を非難しまくる。ということで個人的責任について考えていこうと思う。
自分のことを棚上げしなければ批判はできない
人を批判することの難しさとして自分のことはまずほったらかして考えなければいけないことがある。そうしなければ建設的な批判はできないからだ。
友達や職場の人を評価する際は批判というものが必要になってくる。ほめまくりだとその人の本質が見えてこないからだ。というか100パーセント称賛に値する人はそうそういないだろう。
なのである程度の批判は必要になってくる。あの人は誠実であるが、酒が入ると歯止めがきかなくなる、などの批判はよくあることだ。ここからわかるのは批判をしなければ、批判対象の人の欠点が正せないということだ。人は批判されないと自分がなにが足りないのか、どこが悪いのかかわからないということがよくある。
そういうふうにして他者から自分の至らない点を指摘され、学習していくのである。人間が他の動物と異なる点はこのように学習できることである。
ただ、批判を素直に受け入れられる人もいる一方で、素直に受け入れられない人もいる。なにも頭が固い、頑固野郎だけではない。人は自分の欠点を指摘されると少なからずストレスはたまる。そのストレスといかにつきあっていくかが批判を受け入れられるかどうか重要になってくる。
その一方で難しいのが他者を批判する自分自身である。まああんまり私的な場で友人などを批判することはないと思う。が、批判しなければいけなくなるときは訪れる。その際、自分の欠点はほったらかさなければ、批判することはできないのである。それを恐れていたら、そもそも批判することはできないのである。
したがって、批判という行為は双方にとって難しい問題なのである。
批判が過激化すると
その批判が過激になるとどういう状況になるか。それは非難の嵐である。もう自分のことなどどうでもいい。とにかく相手がこんなことをやったのだからとにかくその人間は悪しき存在であり、断罪されるべきだ、そんな思考が私たちを支配するのである。
こういう悪い行いをした人間は徹底的に非難されるべきだ、というのが現代社会の風潮である。酒を飲みすぎて理性を失い他人に暴力を加えた人の存在を聞くと、「許せない、とにかくこいつは消えるべきだ」という考えになる人は多いのではないか。
そういう考えをする人の中にはその人自身が酔って相手に迷惑をかけたことだってあるはずだ。それにもかかわらず、問題を起こした人間は許さんという思考になってしまうのは、少なからずメディアの報道の仕方にも問題があるので仕方がないのだが。
こういう風に批判的思考が度を越えると非難という思考に行き着くのである。これは結構怖い。なぜなら思考が一元的になっているからだ。冷静に人を分析することを失い、とにかく相手が悪いという凝り固まった考えに支配されてしまう。
「非難的思考」の人が増えると、一歩間違ったら戦争になってしまうのではないか。戦争というのは総じてこういう相手が許せないという考えの帰結なのである。
ただ非難をしている人は自分でもわからないうちに冷静さを失っているので、まさか自分が「悪人」になっていることに気付かない。そうやって無意識のうちに他者を断罪する姿勢が醸成されていくのである。
人に厳しすぎになっていないか
テレビやネットなどでの報道を見ると、なんか人に対して厳しすぎなんじゃないかと思うことがある。
確かに問題を起こしてしまったことはしばらく反省するより他ないが、それでも相手を非難しすぎだと思う。今までは好印象な人物像があったのに一度の過ちで、徹底的に非難される。そして皆、その人の今までの印象は捨て去り、徹底的に非難にまわる。
ここに人間の恐ろしさというものが潜んでいる。一回の出来事でいきなり印象が変わってしまう。いままで良い人だと思っていたのが、まさかそんなことをするなんて。そういう考えになった人は少なからず存在すると思う。
ただそこで立ち止まって冷静に考えればいいものをとにかく許せない、断罪されるべきだという一元的な思考になってしまう人が多いのも事実である。
最も考えなければいけないことは人に厳しすぎになっても自分自身にはなんのメリットもない、ということだ。他者に厳しすぎになっても単に怒りを増幅するだけなのである。というか常に怒っていたら、それこそキリがなくなってしまう。
だからといってあからさまに怒りゼロパーセントになれというのではない。それは不可能である。怒ることは時として仕方ないことだけれども、自分自身冷静になり怒っている状況を客観的に見てみることが重要である。
そうすれば、他者に厳しすぎな姿勢は和らぐのではないだろうか。
今日はここまで!