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eポートフォリオとは

 大学入試の改革でeポートフォリオというものを導入するらしい。このeポートフォリオ、一体なんぞやというと、高校生活での課外活動をデジタル化し、記録を残すというもの。それを大学入試の選抜に用いるというものである

 

 どこまで国は国民の思想や行動を統制したいのだろうか。

 

 なぜこのようなものを導入するかというと、これからの大学入試では「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力」、「主体性を持って多様な人々と協同して学ぶ姿勢」、この3つの学びを総合的に評価するシステムに変わっていくからである(タテマエは)。

新入試で注目の「eポートフォリオ」って何?|Benesse マナビジョンより。

 

 いかにも偽善と欺瞞に満ち溢れている。もちろん国家はより良い受験システムを作ろうなんて発想はないのだろうが。

 

 

 

eポートフォリオによってますます大学入試は貧富の差で決まるようになる

 裕福な家庭ほど受験を優位に進めることができるのは周知の事実だろう。これは大学受験、高校受験、中学受験、お受験、全てに当てはまる。

 

 経済的に豊かであれば、質の良い塾や予備校に子どもを行かせることができ、そこで志望する学校の情報を得られるからだ。もっている情報量が多いほど有利である。

 

 そういうわけで受験というのは家庭の経済によって大きく左右される。

 

 だが、近年になってその問題は解消されつつある。スタディサプリ」などの台頭によって安価な価格で良質な授業を受けることができるようになった。それだけでなく、市販の参考書自体も低価格で質の良いものがかなり市場に出まわっているので、勉強する環境は整っているのだ。

 

 

 したがって家庭が裕福でなくても良質な授業や参考書などによって、受験を優位に進めることができるようになったのである。「逆転合格」みたいなものも昔に比べれば起こりやすい出来事になっている。

 

 そもそも独学しようとする意志さえあれば、通っている高校の偏差値に関係なく難関の大学に受かる可能性が高くなっているのだ。

 

 なので経済的な問題は解決されるかのように見えた。

 

 だが、eポートフォリオの導入によって再び経済的な格差で受験が決まるように私は思えてならない

 

 なぜか。

 

 課外活動の充実というのは、家庭の経済力なしではできないことだからだ。特に「リア充」な課外活動ほど金がかかる。

 

 野球部やサッカー部などはとてつもなく金がかかる。子どもを野球部やサッカー部に所属させている親ならよくわかるだろう。野球の例を出すなら(私が野球をやっていたので)、グラブやスパイクを買うだけでもかならコストがかかる。これにユニフォームや遠征費などが入って来るので出費額はとんでもないことになる。

 

 サッカー(だけでなくバスケやバレーやテニス)なども事情は同じだろう。というか受験ですら金がかかるのに課外活動なんかやらせるなんて経済的に厳しい家庭は無理だろう。

 

 課外活動の一環である留学なら、それこそ一部の富裕層にしかできない。というか高校在学中に留学とか地方の公立の高校の生徒ではそうそういない。

 

 生徒会だって一見富裕層でなくてもできるように思えるが、それに立候補する生徒は大抵裕福な家庭の子である。

 

 生徒会はともかく、部活や留学などの「リア充」な課外活動は金がかかることをわかっていただけただろう。しかも「リア充」な課外活動ほどポイントは大きい。

 

 これは現在の推薦やAO入試でも優位に働いている。「甲子園出場」、「全国高校サッカー選手権大会」、「アメリカ○○高校留学」、これらの実績があれば大学側も好意的に見てとる。

 

 この金のかかる「リア充」な課外活動の実績を一般的な入試の枠組みに導入すれば、家庭環境が貧しくて部活もできない生徒は泣きを見ることになるだろう

 

 したがってせっかく経済的な問題が解消されてきたのにこのようなシステムを導入することで問題は振り出しに戻るのである。

 

 今話題になっている教育の無償化というのがあるが、大学に受かるために金がかかるのだから、教育の格差は変わらないのだ。

 

国はなぜeポートフォリオを導入したがるのか

 理由は、予定調和を乱すような人材がいないかをチェックするためであると私は考える。戦時中で言ったら戦争に反対する「非国民」を弾圧するような感じであろう。

 

 

 以前私は「教育における道徳は必要か」という記事を書いた。

 

www.penserblog.net

 

 詳しくは読んで頂いた方が早いのだが、要は国家は道徳を用いて国民の思想を統制しようとしているという話だ

 

 「星野君の二塁打」で監督のサインを無視して二塁打を打った星野君を非難するように話を進める教材とeポートフォリオで生徒の高校生活を「監視」する行為、この2つから「国家が国民に要請」していることがわかる。

 

 それは「言われたことに反発しないでくださいね。言われたことにいちいち文句を付けないでくださいね。そもそも考えないでくださいね」ということである。

 

 道徳の授業において星野君を擁護なんてしていたら話が進まない(現在の道徳の授業の話の文脈でいったら)。授業で教員の言うことに、もっというと教科書に書かれていることに疑問を持っていたら話が進まない。

 

 いちいち物事や人の言われたことに疑問を持ったり深い思考をする人材は国家にとっては不都合なのだ。「モリカケ」に突っ込んではいけないし、増税以外に方法はないのかなんて考えられては迷惑なこと極まりないのだ。

 

 だからまず小学校で現在の道徳的思想、つまり「考えないでください」という「考え」を生徒に植え付け、それをベースに大学入試の選抜を行うという魂胆なのである。

 

 いちいち文句を言う人間なんていたらそもそも「一億総活躍社会」なんて到底不可能なのだ。要は「つべこべ言わず働け!」ということなのだ。

 

受験のための課外活動ほど見ていて無様なものはない

 「受験の受験による受験のため」に部活をやることほど愚かなものはない。部活をやるのは純粋に楽しいからであってそれ以上でもそれ以下でもない。

 

 野球部に入るのは野球が好きだからであり、「受験に有利だから」という理由ではない。サッカー部に入るのは、テニス部に入るのは、将棋部に入るのは、演劇部に入るのは、それが好きだからであり「受験に有利だから」という理由ではない。

 

 私たちは高校生の常に全力で取り組む姿勢に胸を打たれる。それは純粋で「受験に有利だから」という下心がないからである

 

 もし入試制度の改変で課外活動の実績を正式に一般入試の枠に入れたらどうなるだろうか。そうなってしまったら「受験のために」やらなくてはいけなくなる。

 

 そんな重荷を背負って部活に取り組む生徒ははたして魅力的に見えるだろうか。

 

 目的遂行のために部活をする、そんな下心丸出しの生徒なんて見ているこっちも苦しくなる。

 

 「受験の受験による受験のための」部活は見苦しく無様なものだ。

 

 大学入試改革と言えば聞こえはいいが、それを口実に悪質な悪ふざけをするのはやめてほしいものだ。改革を叫ぶ人間はびくともしないだろうが、混乱するのは生徒たちである。

 

 一部の大人たちによって大部分の受験生が混乱するのだ。

 

 目的遂行のために課外活動をやるような生徒が増えれば、ますます日本は息苦しい国家になっていくだろう。

 

 ま、その愚かさに耐えかねて富裕層は自分の子供を海外の大学に進学させるだろうが。