タイトルの主語が「世界は」ではなく「僕等は」だと思った人、大不正解!
意味がわからない人はback numberを調べよう。
この世の中は不合理や不完全なもので満ち満ちている。それでも私たちは完全であることを世界に求めたがる。
今日はそんなことを書いていく。
混沌とする世界
世界は混沌としている。世界では未だに核兵器の脅威に脅かされている。貧富の差も深刻な問題だ。
国家的なスケールの戦争はなくなったが(私がそう思っているだけでもしかしたらなくなっていないかもしれない)、地域的な紛争はまだ続いている。
そのような紛争のせいで苦しい生活を余儀なくされている人は数えきれない。
自然災害による脅威もなくならない。これは日本に住む私たちにとっては重要な問題だ。地震や台風は今も昔も絶えず私たちを苦しめる。
いくら防災意識を高めても、いくら建物をはじめとする周辺環境を頑丈にしたところで自然災害を防げるわけではない。
犠牲者は必ず一定数出る。
人類始まって以来、完全なるユートピア、つまり戦争や貧富の差、自然災害のない平和な世界はあっただろうか。
一時的にそういう世界はあったかもしれない。
が、絶えず私たちはそれらの諸問題に悩まされてきた。
いつの時代も世界は完全無欠ではないのだ。
完全無欠を求めたがる人間
世界は完全無欠ではない。
なのに人々は自分の生きる世界が完全になることを要求する。
心理学などはその例と言ってもいいかもしれない。
心理学は「こんなことを言えば(すれば)、こういう結果になる」、「こういう行動をとれば人をコントロールできる」みたいな記述が結構書かれている。
最近は露骨に人を操って思い通りにしようみたいな本もある。
皆がそのような心理学を実践し、人を操ろうとしたら……。
もちろん心理学に関しては悪いものではなく、良いものもある。
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人間における完全無欠の例は他にはビジネスだろう。
社会人になると、あらゆる面で完全無欠であることを要求される。
・遅刻をしてはいけない
・髪の毛は耳にかからないようにする
・髪の毛の色はそもそも黒
・ビジネスパーソンたるもの、スーツ
・正しい言葉遣いと敬語を使え!
というかこれらは完全無欠の要求というより単なる社畜マインドの植え付けである。
これらができてこそ一人前の社会人である(とされている。in Japan)。
完全無欠の例は、他には子供の教育だろう。
受験がいい例だ。
とりわけ都会の親ほど子どものお受験に熱心な傾向がある。
親は子供がまだ判断力がない状態で塾に行かせ、有名な学校を受験させることに熱心だ。
その根底にある思想は、良い学校に入学させ、卒業させさえすれば、優良企業(公務員)に内定をもらえ、その先は安定した生活を送ることができるということだろう。子供が。
それに親も周囲に良い顔をすることができる。親、子供にとってwin-winの関係になるわけである。
これは受験さえ乗り切れば、完全無欠な人生を送ることができるという奇妙な思想である。
実際はそうではないのに。というか子供の意思かどうかすらもわからないのに。
この世界と人間が完全無欠になると
この世界、人間が完全無欠になるとどうなってしまうのか。
まず、個性と多様性がなくなる。
あまりこのようなことを言うのは適切ではないが、世界というのはあらゆる問題が山積しているからこそ、多様性で満たされるのである。
当たり前であるが、戦争・紛争、貧富の差、自然災害などは起きていいものではない。
理想的にはそんなもの、この世からなくなってしまえばいい!というのが私たちの本音であろう。
だが、それを願ったところで問題が解決されるわけではない。それは歴史が示す事実である。
だからこそである。人類はそれらの問題を解決しようと努める。そしてそのような行動を人間がすることによって世界は多様性で満たされるのである。
もっとスケールを小さくして考えてみよう。
日本において、完全無欠なビジネスパーソン100%になったらどうなるだろうか。
遅刻もしないし、黒髪で髪は耳にかからない、品行方正な言葉遣いをする社会人。
もちろんダークスーツ。
このような人が100%になったら気持ちが悪いだろう。というか外国人にそんな光景見せたくない。
社会人だけど髪を染めている人、髪がばりばり耳にかかっている人、ゴリゴリひげを生やしている人がいるからこそ、(私は)安心できるのだ。
皆が皆、立派な身なりをしたビジネスパーソンだったら、恐ろしすぎる。そこに個性なんてないのは一目瞭然だ。
受験の例だって、塾通い・お受験→有名どころの学校→ホワイティな企業→人生安泰が絶対的な人生のレールになってしまったら、受験で不合格になった子は人生が早々と終了してしまい、極めて不健全な世の中になってしまうだろう。
というか、ホワイトカラー以外の職業に目がいかなくなってしまう。
そういうわけで個性と多様性が失われてしまうのである。
完全無欠になることによる問題のもう一つの考えは、人間が努力することをしなくなるということだ。
というか完全無欠な人間とか神である。
自分を取り巻く世界、環境、そして人間を思い通りにすることができるようになれば、努力をし、向上させていこうとする精神がなくなってしまう。
自分の意のままに操ろうとする努力はよくないが。
努力し、向上させていこうとする姿勢こそが、世の中を発展させていくのだ。
完全無欠ではないからこそ進歩していく
世界というのは完全ではない。だからこそより良い方向へと発展させていこうと人類は努力するのである。
過去から現在まで、世界は完全無欠であることはなかった。
そのような不完全な世界で人類は山積する問題に対処し、より良くしていこうと改善をしていった。
そのようなことが積み重なって、現在の世界が作られていった。
不完全であることは、世界が発展していくために必要不可欠な要素なのだ。
今後も世界が完全無欠になることはないだろう。
世界では紛争、格差社会、自然災害、病気などの問題が存在し続けるだろう。
それらは私たちが進歩していくために避けることのできない課題であり、真摯に向き合っていかなければならない。
問題を解決すればまた新たな問題が生じる。そういう問題を地道に対処していくことで、世界、ひいては人類は発展していくのである。