Sakuはゆるく生きる

外国語系の記事が多くなりそうです。

働かざる者は食ってはいけないのか

「働かざる者食うべからず」というクソ真面目な考えはもうすぐ消える(井上 智洋) | マネー現代 | 講談社(1/5)

 

 上記の記事は「働かざる者食うべからず」という考えに否定的な内容である。もちろん私も「働かざる者食うべからず」という考えには否定的な考えを持っている。

 

 ニート系人間と自称している以上当然と言えば当然なのだが。

 

 というかこのような記事がニート(というか今失業中だからガチなニート)な私にとって、意義があるような気がする。なので「働かざる者食うべからず」に対する私の考えを述べていく。

 

 

 

働かない人は飯を食ってはいけないのか

 

  働かない人間は食っていはいけないという考えに私は恐怖を抱く。そんなことしたらら人がばたばたのたれ死んでいってしまう。のたれ死にまくってしまったらますます人口は減少していくだろう。そんな現実を当然のように思い込むような国なんて私は住みたくない。

 

 努力をして結果を残す人に対して相応の報酬を与えるのは当然のことであると思う。しかし、だからといって何もしない人は何もしないでほったらかせというのは違うだろう。

 

 第一働きたくない人や障害などがあって働けない人たち(働きたいという意欲があれば別だが)のように働くことが必ずしも適さない人が一定数いる。働きたくないという人を無理やり働かせてこの国は幸せになるのだろうか。

 

 

 もちろん幸せになんてならないし、国の生産性も上がらないのは目に見えている。日本の仕事の生産性が上がらないのってこういうところからきているのではないのか。全ての人間が働きたいわけではないのに全ての人間に労働を強いる。それゆえ日本の労働環境はあまり改善していかないのだ。

 

 なので働きたくない人や何らかの理由があって働けない人に対しては一定額の生活費を与える方が幸せになるはずなのだが、もちろんこの国の政治家や官僚などはそんなことはしないだろう。

 

「働いたら負け」は真理である

  「働いたら負け」。一昔前なら誰もがこのような発言をする人をせせら笑っていた。「こんなのは所詮働かない野郎の戯言に過ぎない」と。だが今この発言を笑える人はいるだろうか

 

 昨今の日本の劣悪な労働環境やそれが原因による自殺に関する報道を見ていると、むしろ間違っていたのは働くことを当然だと思っていた私たちの方であったことに気付く。

 

 「働いたら負け」であったのだ。嫌いなことを無理やり満員電車に揺らされ、会社ではパワハラをされる上にさして高くもない給料をもらうこのような状況において、「働いたら負け」という言葉を私たちは笑うことはできない。

 

 そもそもテクノロジーがかなり進歩しているので、人間がやる労働自体少ないはずだ。それなのにいまだに旧態依然とした労働をすることは時代遅れである。

 

 「働き方改革!!!」と声高に叫ぶのはいいが、その実改革など全く進んでいないのは電車の中のビジネスパーソンを見ればよくわかる。いや、全く進んでいないわけではないだろう。だが日本の労働環境全体に浸透しているわけではない。

 

 もちろん政治家や官僚なんてあてにならないので(というかいかに国民を働かせるかについて日々考えているので)、労働者の意識が変わっていかない限り、永久に「働いたら負け」である

 

 

最近の日本人はストイックすぎる

 私が思うに最近の日本人ってやたらストイックじゃないか。別に労働だけに限ったことではないが、日常生活においてもストイックなことだらけだ。

 

 テレビをつければライザップのCMが流れているし、ゴールデンの時間帯のテレビ番組は健康系のものばかりだし(規制が厳しくてやばい番組をつくれないというのもあるかもしれない)とにかくストイックなことだらけだ。

 

 で、罪を犯した人間は徹底的に断罪をする。最近ではモーニング娘。(最近ではないが)の元メンバーが事故を起こしたことでテレビは彼女に対する報道を垂れ流し、とにかく非難しまくっていた。もちろん事故を起こしたのは許されない行為だが、本人だって反省しているのだから、これ以上責めるのはやめたほうがいいと私は思うのだ。

 

 そのように日本人はライザップや健康系の番組で自分を律する一方、他人の失敗や過ちに対して厳しいスタンスをとっている。こういうことから「自分に厳しく他人に優しく」というのは本来ムリゲーなのだ。

 

 自分に厳しくするというのは無意識の内に他人に対しても厳しくなってしまうのである。なんとも生きにくい世の中である

 

 

 今の時代で重要なのは自分を律すること以上に他人に対して寛容になることではないか、と私は思う

 

労働に対する考えを変える必要がある

 私たちがいまやるべきことは労働に対する考えを変えることだと思う。これまでは労働とは生活を維持するために必要なことと考えられてきた。なので多少の不満、例えば満員電車やパワハラ上司、劣悪な労働環境は仕方がないこととされていた。

 

 だが、現在そのような労働スタイルが限界に達しているのではないか。苦労をしてもたいして給料が上がっていかない、待遇が改善されていかないなど報われないことが多くなっている。

 

 というか、嫌いなことを我慢してやって働いているから「働かざる者食うべからず」という考えが根強いのだ。

 

 「俺は苦労して働いてるんだから飯は食えて当然だ。ニートとかなんて働いていないのだから飯を食ってはいけない」と意味不明な考えをしている人が一定数いると思う。

 

 労働=我慢して苦労して頑張って働くことと考えているから働いていない人間に対して寛容になれないのである。だが、この考えを改めたらどうだろう。

 

 つまり労働=我慢して苦労してやるものではなく、自分の意思で積極的に行うものと考えたら「働かない人間は食ってはいけない」という発想はしなくなると思うのだ。

 

 したがって労働というものに対する考えを見直していかなければならないのである。

 

多様な生き方を認めるべき

 重要なのは「人生100年時代」を作り、「1億総活躍」させることではなく、社会で活躍しない人の人生を尊重することである。そもそもすべての人が社会で活躍したいと思っているわけではない。社会で活躍しなくても、ゆったりとした生活ができればいいという人だっている。

 

 そういう生き方を望む人たちを認めていかない限り、日本は窮屈なままであろう。

 

 私たちはお国のために社会で「総活躍」するために生きているのではない。自分の時間を生き、天寿を全うするために生きている。上から「100年生き総活躍しろ!!」だなんていわれる筋合いがない。

 

 自分の時間を生きることができず、劣悪な労働環境やパワハラによって命を落とすことはあってはならない。そんなくだらないやつらのために人生を落とすぐらいだったら働かないという生き方をしたほうがいい。

 

 私は切実にそう思うのだが、現実はなかなか難しいと思う。どうしても皆真面目でストイックであるがゆえ、つい自分を追い込んでしまう。

 

 だがそんなことをしたところで、何かが良くなるわけではない。なので自分を追いつめすぎず、自分に対しても他人に対しても寛容になることが重要である。

 

 そのように自分と他人に対する認識を変えていけば、多様な生き方を認めていくことができるのではないだろうか。

 

 とにかく重要なのは自分の時間を生き、天寿を全うすることである。